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論文

 厚生労働省が実施している「毎月勤労統計」の調査が杜撰であっただけではなく、その不正を調査する特別監査委員会の中間報告も、委員会での関係者の聞き取り調査の一部が厚生労働省の役人、すなわち身内によって行なわれていたことが分かり大問題になっています。
 政府が実施している統計は多数ありますが、そのうち56の統計は「国民経済の健全な発展及び国民生活の向上に寄与する」ことを目的とする「基幹統計」に指定されており、筆頭は5年に1回実施される「国勢調査」ですが、問題となっている「毎月勤労統計」も、その1つです。
 国家や国民の状態を示す数字に過ぎないと思われるかもしれませんが、これは重要な意味を持っています。
 今回の特別監査委員会がわずか6日間で中間報告を発表したことでも明らかですが、政府はこの事件の深刻さを理解していないと思います。

 その一例が2009年にギリシャが財政破綻直前の状態になり、EUの問題だけではなく、世界経済全体に波及したことです。
 原因はギリシャ政府が発表していた財政赤字が経済統計で報告されていたよりも莫大であったことが判明したことで、ギリシャが信用を失い、危機的事態になったのです。
 今回の日本でも日本の経済状態を示す基幹統計が杜撰であったとなれば、海外の投資家は日本企業の株への投資を敬遠し、日経平均株価などが下落して、日本経済全体に悪影響をもたらすことになります。

 そこで統計が如何に重要かを歴史的な事例で振り返ってみたいと思います。
 17世紀のイギリスに「統計学の始祖」と言われるウィリアム・ペティという人物がいました。
 医学部を卒業した医師であり、数学を勉強した数学者でもあり、軍医総監も勤めた軍人でもあり、測量を指揮した技術者でもあり、ダブリン理学協会を設立して会長も勤めたという万能の人物です。
 そのペティが存命中に執筆し、死後の1690年に出版された『政治算術』という本があります。
 政治算術という言葉はペティの本の題名でもありますが、統計によって社会を把握して将来を予測し、政策を決めるという、新しく開発された政策策定手法でもありました。
 ここでペティは17世紀後半にヨーロッパで覇権を争っていたイギリス、オランダ、フランスを統計数字により比較し、イギリスの長期戦略を提案しています。
 当時、人口は多い方からフランス、イギリス、オランダの順番でしたが、所得は多い方からオランダ、イギリス、フランスでした。
 その理由は、中心の産業がフランスは農業、イギリスは工業であるのに、オランダは商業ということにあるとペティは考えたのです。
 確かにオランダは当時の世界最高の造船能力を持ち、1602年に世界最初の株式会社と言われる「オランダ東インド会社」を設立、世界貿易の先進国でした。
 そこでペティはイギリスが重商主義に舵を切り、貿易大国になるべきだという政策を提言し、以後、イギリスは世界の海を制覇し、大英帝国に発展していくことになります。
 極端に言えば、統計が大英帝国を創ったのです。

 もう一人、イギリスの統計の発展に貢献したのがフロレンス・ナイチンゲールです。
 ナイチンゲールというと一般にはクリミア戦争で活躍した従軍看護婦を思い出しますが、統計学の大家でもあったのです。
 若い頃から「近代統計学の父」と言われるアドルフ・ケトレーを尊敬し、家庭教師によって数学や統計を勉強していました。
 1854年に38名の看護婦を率いてクリミアの後方基地の病院に勤務しますが、病院に送られてきた負傷兵が、傷が原因で死亡するのではなく、不衛生なために感染症で死亡している比率が圧倒的に高いことを統計数字で明確にします。
 その結果を参考に対策を行った結果、1855年4月には病院に収容された兵士の死亡率が42%でしたが、4月には14・5%、5月には5%と、劇的に低下していきました。
 このような成果によって、1859年には王立統計協会の女性会員になり、翌年にはロンドンで開催された国際統計会議で病院統計のモデルを発表し、さらに1875年にはアメリカ統計学会の名誉会員にも推挙されています。
 白衣の天使だけではなく、統計の大家でもあったのです。

 今日は「生命保険の日」です。これは明治15年に日本の生命保険が初めて保険金を支払った日を記念したものです。
 1月20日に心臓病で急死した人の遺族に、31日に1000円が支払われたのです。掛金は30円でした。1円を現在の4000円で換算すると、12万円の掛金で400万円が支払われたことになります。
 この生命保険は統計に深く関係があり、かつて保険会社は大学の数学科の卒業生の重要な就職先でした。
 保険に統計が導入された契機は、17世紀のイギリスでセントポール寺院の牧師が自分たちの葬式代を賄うために「香典前払組合」を作って互助会活動をしていたことです。
 ところが掛金が年齢に関係なく同じであったため若い牧師からは不評でした。
 そこに登場したのがハレー彗星を発見した天文学者エドモンド・ハレーで、ドイツ(現在はポーランド)のプレスラウの詳細な死亡記録を使い、年齢ごとに生存者と死亡者の割合を計算し、その統計結果に基づいて保険料の支払金額を算定し、問題を解決したのです。

 これらの数例からでも分かるように、統計というのは社会の現状を調べるというだけではなく、それを使用して国家の長期戦略や多数のビジネスの戦略を考える基礎となる仕事です。
 もちろん今後、ビッグデータ収集が進歩し、時々刻々、自動でデータが収集可能になり、統計数字を収集する手法は変化していく可能性はあります。
 しかし手法は変化しても国家や社会の基礎であることには変わりありません。ありふれた例えですが、建物を建てる基礎ですから、それが不正確であれば、どのように立派な建物を建てても崩壊してしまいます。
 今回の厚生労働省の問題は、単に数字が不正確であったという問題ではなく、担当する人々に、それが国家の基礎だという認識のないことが重大な問題だということです。





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