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論文

 麻生総理大臣が2月9日の衆議院予算委員会で「小泉元総理に常識的なことを期待するのが間違い、奇人変人としては正しい行為」という答弁をして、小泉元総理大臣を怒らせたようですが、この奇人変人というのは意外に人気があり、この番組でも時々、歴史上の奇人変人をご紹介すると反響があります。
 そこで今日は久しぶりの奇人変人シリーズとして2人の画家をご紹介したいと思います。

 最初は江戸時代の後期に活躍した浮世絵師の葛飾北斎(1760‐1849)です。葛飾北斎といえば「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」「北斎漫画」などの浮世絵の名作で国内だけではなく世界的に有名ですが、様々な奇行でも有名です。
 まず引っ越し魔で、生涯に93回も引っ越し、1日に3回引っ越したということもあったということです。
 夏目漱石や谷崎潤一郎も転居回数が多いことで有名ですが、年譜で調べてみると、夏目漱石が約27回、谷崎潤一郎が8回程度ですから、北斎には遠く及びません。
 それほど転々と引越ししたのは借金の取り立てから逃れるためかと普通は考えますが、北斎は人気画家で画料は高額で、「南総里見八犬伝」などの人気作家の滝沢馬琴が嫉妬したほどでしたので、その必要はありませんでした。
 その証拠に、引っ越した借家の場所はほとんど両国から深川、浅草周辺で、逃げ隠れするためではなかったのです。
 そこで、一般には、新しい創作をしようとするとき、作風がマンネリにならないための気分転換だったと説明されています。
 しかし、別の説があり、後妻が病没した後、娘の阿栄(おえい)が同居していたのですが、彼女も画家で家事に関心がなく、掃除や片付けをしないため、部屋にゴミなどが溜まってくると、片付けるのが面倒で引っ越したという説もあります。

 この説からも伺えるように、北斎は無頓着な性格で、同じ江戸後期の浮世絵師の歌川国芳(1798‐1861)、渓齋英泉(1791‐1848)などは美しい服を着た伊達男でしたが、北斎は藍染めの木綿の服を着て、趣味と言えば1個4文の大福餅を食べることくらいで、食事も煮売屋という現在でいえばコンビニエンス・ストアで買った総菜を食べていたそうです。
 そのため、引っ越した借家は煮売屋や菓子屋の隣が多かったというエピソードもあります。
 金銭にも無頓着だったのですが、もうひとつ興味深いのは名前にも無頓着でした。
 北斎には、若い時代の「勝川春朗(かちかわしゅんろう)」「幾治茂内(いくじもない)」などから、壮年時代の「宗理(そうり)」「辰政(たつまさ)」、晩年の「載斗(たいと)」「画狂老人北斎」など、50以上の画号を使っていますが、これは画号を弟子に次々と売り払った結果だということです。
 このような奇人でしたが、世界に残る作品を残した偉人でもあります。

 次は北斎ほど有名ではありませんが、最近になり急速に注目されはじめた河鍋暁斎(かわなべきょうさい)(1831‐1889)をご紹介したいと思います。
 江戸末期から明治初期に活躍した日本画家で、子供の時から絵を描くのが好きだったため、7歳のときに両親が当時評判であった歌川国芳に入門させますが、9歳のときに、家のそばを流れている神田川に流れ着いた生首を拾って家で描写していて大騒ぎになったというエピソードがあるほど、若い時から奇人の片鱗がありました。
 暁斎の画才は素晴らしく、その能力に惚れ込んだ国芳は、子供の暁斎を女郎屋に連れて行って、そこで浮かれている酔客の様子を写生させたので、親が驚いて国芳から離し伝統的な狩野派に弟子入りさせます。
 そこでも能力を発揮し、わずか19歳で狩野派の免状を与えられ、河鍋洞郁陳之(かわなべとういくのりゆき)の名前を与えられます。
 しかし、子供のときの国芳の教育の影響は強く、自身で「狂斎」と名乗って、宴会で酒を飲みながら酔客を即興で描き続けるという生活をしていました。

 そのような反骨精神が強いため、幕府の御抱え絵師である狩野派には馴染まず、25歳のときに町絵師となりますが、その反骨精神の故に明治3年には政府批判のために逮捕投獄されます。翌年、出獄してから名前を同じキョウサイでも「暁斎」に改めます。
 このような奇才でしたが、その画才は外国人に認められ、御雇い外国人としてイギリスから招かれて東京大学の工学部建築学科教授であったジョサイア・コンドルは弟子入りし、「暁英」という画号を与えられています。
 さらにフランスの実業家で、ヨーロッパでは最大の東洋美術の収集品を誇るギメ美術館を設立したエミール・ギメが明治9(1876)年に暁斎を訪問しているほど外国にも名前が知られていました。
 明治20(1887)年に日本最初の国立美術学校である東京美術学校が創立され、その教授という話もあったほど認められていましたが、2年後に胃がんで逝去し、結局、生前は不遇でした。

 河鍋暁斎については、弟子となり暁斎を尊敬していたジョサイア・コンドルの書いた『河鍋暁斎』が岩波文庫にありますし、子孫の河鍋楠美さんが館長をしておられる私設の「河鍋暁斎記念美術館」が埼玉県蕨市にありますので、訪ねられたらと思います。

 最初にも申し上げましたが、奇人変人には隠れた人気があります。その背景には、多くの人が社会の規則や慣習に従って生活しておられますが、それを抜け出したいという想いがあるからだと思います。
 しかし、しがらみ、自制心、羞恥心などによって抜け出せないときに、それを突き抜けた人に憧れるのではないかと思います。
 そのような訳で、今日は2人しかご紹介できませんでしたが、時々、奇人変人シリーズを続けたいと思います。





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