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論文

 昨年は明治維新150年ということで、様々な記念行事が開催されましたが、その一つとして東京上野にある国立科学博物館で「日本を変えた千の技術博」という博覧会が昨年10月から開かれています。
 3月3日までということで終わりも近づいたので、今週、見学に行ってきました。
 幕末から最近まで登場した多数の技術が実物で紹介されていますが、興味があったのは、開国をした直後から流入してきた技術を短期間で習得しただけではなく、欧米を上回る成果を挙げた優秀な人々が多数登場していることです。
 例えば、明治政府が技術者を養成するために設立した工部大学校の第一回卒業生である高峰譲吉は1879年に応用化学科を首席で卒業して渡米し、デンプンを分解する酵素のジアスターゼを植物から抽出することに成功して「タカジアスターゼ」という消化薬を開発し製薬会社「三共」の社長として成功、さらに廃棄される家畜の内臓から止血剤として利用されるアドレナリンの結晶抽出に成功しています。
 札幌農学校の第二回卒業生である廣井勇(いさみ)は、1881年に卒業後、私費でアメリカに渡り、鉄道や橋梁の設計事務所で設計に携わりますが、その経験を基礎に橋梁設計の技術書を英文で出版します。これはアメリカの大学で教科書に採用され、5刷まで出版されています。

 これら初期の人々は授業も英語、卒業論文も英語で書いており、授業を記録した美しい英語のノートなども残っていますが、しばらくすると教科書なども日本語で出版され、初期に育った人々が教授となって日本語で後輩を育成していきます。
 この日本語に翻訳して外国文化を吸収できたことが、日本全体を大きく発展させた力だと思います。
 先週あたりから日本のプロ野球の春季キャンプの様子が報道されていますが、明日2月22日は「ベースボール」が「野球」に翻訳され公表された記念日です。
 正岡子規が野球という言葉を作ったという説もありましたが、これは間違いです。
 ベースボールは明治4年(1871)にアメリカ人が持ち込み、後に東京大学の一部となる東京開成学校予科で生徒に教えたのですが、子規は明治17年(1884)に東京大学予備門に入学して野球を知って熱中しています。
 どのくらい熱中していたかというと、郷里に帰った時には野球道具を持ち帰り、地元の松山中学の生徒に野球を教え、一時、就職した『日本新聞社』では野球の規則や用具について解説記事を書き、野球を詠んだ「草茂み/ベースボールの/道白し」という俳句や「久方の/アメリカ人の/はじめにし/ベースボールは/見れど飽かぬかも」という短歌も作っています。
 いずれもベースボールになっており、子規が野球に翻訳したのではないことがわかります。
 しかし野球の普及に貢献した功績により、2002年に野球殿堂博物館に顕彰されています。

 それでは野球という翻訳は誰が何時、作成したのかということですが、1887年に第一高等学校(一高)に進学して、翌年、創設された野球部で活躍していた中馬庚(ちゅうまかのえ)とされています。
 中馬は1893年に一高を卒業する時に、「一高ベースボール部史」の出版を依頼されます。
 そこでベースボールを翻訳しようと、最初は「底球」とします。
 しかし、すでに当時、テニスが「庭球」と翻訳されていたため、紛らわしいということになり、芝生の庭でするのが「庭球」なら、野原でするのは「野球」という訳語を作りました。
 この訳語を使って1895年2月22日に『校友会雑誌号外 野球部史』が発行されたので、2月22日が野球という言葉が誕生した日になったわけです。

 長々と野球という言葉の誕生を紹介しましたが、明治時代の翻訳には多数の傑作があります。
 第一は中国で古くから使われていた熟語を充てたものです。
 「リテラチュア」の訳語の「文学」は『論語』に登場、「シビライゼーション」の訳語「文明」は『易経』、大学の卒業生を表す「バチェラー」の訳語「学士」は『史記』、「ロウ」の訳語「法律」は『管子』、など60以上が存在します。
 第二は中国の語源ではないけれども、古くから日本で使われてきた日本式の漢語を、明治時代になって英語に対応させたもの。
 場所(プレース)、舞台(ステージ)、表現(エクスプレッション)、市場(マーケット)、宗教(レリジョン)、出口(エグジット)、希望(ホープ)など、これも100以上が存在します。
 第三は日本人が能力を発揮した熟語で、明治時代になってから漢字を組合わせて作った造語です。
 電車(エレクトリックカー)、物質(マテリアル)、反射(リフレクション)、電信(エレクトリック・テレグラフ)、美学(エステチックス)、放送(ブロードキャスト)、科学(サイエンス)、歴史(ヒストリー)など、300以上が作られています。

 意外なことは、これらの和製漢語のうち1000近くが中国に渡っており、現在の中国で使われているそうです。
 例えば、「一元化」「機械化」「工業化」など最後に「化」をつけた和製漢語
   「西洋式」「問答式」「簡易式」など「式」のつく言葉
   「歴史的」「民族的」「科学的」など「的」のつく言葉
   「人生観」「社会観」「宇宙観」など「観」のつく言葉
などがあります。
 これは明治中頃(1896)から1937年の支那事変が発生するまでの42年間に、中国から日本へ留学した学生が6万人以上になっており、それらの人々が持ち帰った効果です。
 1898年に日本に亡命してきた梁啓超(りょうけいちょう)という政治家が「日本語を話せるようになるのには1年間、書けるようになるのには半年間が必要だが、読むだけであれば数日でも可能である」と言っていたそうですが、日本と中国には長い文化交流があったことを反映しています。

 現在、情報技術の分野では、コンピュータ、ソフトウェア、ネットワークなど英語が氾濫していますし、MBA、GPS、CEOなど英語の略字も氾濫しています。
 これを明治時代のように計算機、通信網、経営学修士、最高経営責任者などと翻訳する時代ではないと思います。
 明治時代とは桁違いに国際交流が活発になった時代の日本文化を作る努力をするべきだと思います。





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