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論文

 先月から「知られざる名建築の秘密」シリーズを始めましたが、それと平行して、今月から「知られざる浮世絵師」シリーズを始めたいと思います。
 浮世絵師というと、一般には喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などが有名ですが、江戸時代を通じて名前や作品が知られている浮世絵師だけでも数百人はいますし、その弟子などで名前も残っていない人も多数いました。
 当然、それほど有名ではないけれども、素晴らしい作品を残した浮世絵師もいますから、それら知られざる人々を時々ご紹介していこうと思います。

 浮世絵の初期には肉筆浮世絵といわれる1枚だけの手描きの絵画でしたが、17世紀中頃から吾妻錦絵と言われる多色刷りの木版画が開発され、現在のカレンダーや人気俳優の写真のような役割をするようになり、多くは芸術品というより消耗品に近い商品になっていきました。
 したがって、江戸末期から明治初期には瀬戸物を箱詰めで輸出する時の緩衝材として詰込まれたり、明治時代になると文明開化の掛け声で軽視されて二束三文で外国に流出していましたし、さらに戦後にも、金に困った人たちが安値で外国人に売り渡したりしていました。
 その結果、海外に多数の名作のコレクションが存在するという、日本人としては残念な状態になっています。

 それらの中でも、国内には数十点しか残っていないのに、海外には何千点という作品が保存されている「川原慶賀」という浮世絵師がいます。
 どのような人かを説明するために、まず1828年秋に発生したシーボルト事件から説明する必要があります。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1823年に出島にあったオランダ商館の医師として日本に到着し、1828年に帰国しようとしますが、その乗船予定の船コルネリウス・ハウトマン号が暴風雨のために長崎港内で座礁してしまいます。
 かねてからシーボルトの行動を監視していた長崎奉行所が船内を捜索すると、持ち出し禁止の品々が大量に積まれており、大事件に発展したのがシーボルト事件です。
 シーボルトは国外追放となって、翌年12月30日に長崎から帰国しますが、今年はそこから180年目ということになります。

 この事件で、国内の関係者も伊能忠敬の測量を支援した高橋景保(かげやす)を筆頭に多数逮捕されますが、その中の1人に「出島出入絵師登与助」と長崎奉行所犯科帳に書かれている人物もいたのです。
 罪状はシーボルトの監視不十分ということで、入牢となりますが、この「登与助」が今日ご紹介する浮世絵師「川原慶賀」なのです。
 ほとんど長崎だけで仕事をしていたので、経歴が明確ではありませんが、1786年生まれで、1860年代の慶応年間に75歳くらいで亡くなったと推定されています。
 当時、出島には1人だけ「出島出入絵師」という肩書きの画家が任命され、出島に居住するオランダ人の求めに応じて絵を描く仕事をしていましたが、その第1号が1811年に25歳で任命された川原慶賀と考えられています。
 川原慶賀が明確に記録に残っているのは、シーボルトがオランダ商館長に随行して第11代将軍徳川家斉(いえなり)を表敬訪問するために、1826年に出島から江戸に向かったときのことです。
 この時の様子はシーボルトの『江戸参府紀行』に詳しく書かれていますが、その中に「画家としては登与助が随行した。彼は長崎出身の非常に優れた芸術家で、特に植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法を取り入れはじめていた。彼が描いた多数の絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物語っている」と川原慶賀を紹介しています。

 この最後の部分が重要で、シーボルトは来日したときから、オランダに日本の資料を集めた博物館を作るという目標を持っていたため、様々な道具や書物を収集するとともに、川原慶賀に日本の風俗、道具、動物・植物などを描かせていました。
 そして帰国するまでに、約600点の植物の絵、約260点の魚の絵を描かせていますが、これがシーボルトの著作に役立ったのです。
 シーボルトの日本に関する著作のなかで重要なものは『ニッポン』『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』の3冊になると思いますが、その中の美しい図版の多くは川原慶賀の絵を下敷きにしたものです。
 とりわけ『日本動物誌』の「魚類編」には330種の日本の魚の図版がありますが、そのうちのほぼ半分は川原慶賀の237枚の絵を下敷にしています。

 それらのほとんどすべてが注文に応じて1枚だけ描いた絵なので、版画のように多数出回っていませんし、シーボルトはじめ注文したオランダ人が本国へ持ち帰ってしまい、日本では無名の浮世絵師になってしまいました。
 植物や動物の絵は科学的な目的をもったものなので、精密・正確に描くことが要求され、また、1人の人間が誕生してから、お宮参りをし、元服し、見合いをし、結婚をし、病気になり、死亡して墓に埋められるまでを描いた一連の絵も、日本の風俗を正確に表現することを求められているので、きわめて几帳面な描写ですが、美しい絵を多数残しています。

 川原慶賀の作品の大半はオランダのライデン国立民族学博物館、ベルリン民族博物館に収蔵されていますし、本格的な画集も出版されていませんので、我々が日常的に鑑賞する機会は少ないのですが、日本をヨーロッパに紹介するのに貢献した優れた浮世絵師が19世紀の長崎に居たということを知ることも味わいのあることだと思います。





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