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論文

 建築の秘密シリーズの第1回は「桂離宮」をご紹介しましたが、2回目として「出雲大社」の秘密をご紹介したいと思います。

 出雲大社というと、現在では縁結びの神社とか、10月になると日本中から神様が集まってくる場所として有名ですが、この神社には様々な秘密があります。
 その背景にあるのは、すべて巨大ということです。
 まず注連縄(しめなわ)です。銅鳥居をくぐって荒垣に囲まれた内部に入ると正面に拝殿があり、この正面に注連縄が張ってあります。
 これも巨大ですが、左に曲がって、一旦、荒垣を出て素鵞川(そがかわ)を渡ると、そこに1981年に新たに造営された「神楽殿」がありますが、その正面にも巨大な注連縄が張られています。
 日本一の大きい注連縄は福岡県の福津市(ふくつし)にある「宮地獄(みやじだけ)神社」にあるもので、長さ13・5m、直径2・5m、重量5トンですが、出雲大社の神楽殿の前にあるものは長さ13m、直径2・8m、重量3トンという大きさです。

 注連縄では日本一を逃していますが、文句なしに日本一は国宝に指定されている本殿で、千木の先端まで24mあります。
 ちなみに出雲大社と比肩される伊勢神宮の内宮の社殿は高さ9mですから、24mの巨大さが分かると思います。参拝者は瑞垣の外側からしか見ることができませんが、それでも垣根よりもはるかに突き出した偉容です。
 ところが、本居宣長が18世紀末に書いた『玉勝間』には「出雲大社、神殿の高さ、上古のは32丈、中古には16丈、今の世のは8丈」と記されています。
 1丈を3mとすると、古代には96m、中世には48m、江戸時代後期には24mの高さということになります。
 現在の高さ24mの建物は1744年に造営されたものですから、少なくとも宣長の記述と合致していますが、96mというと、このTBSラジオの入っている「TBS放送センター」の高さが95mですから、それと同じ高さの木造建築が古代に建っていたという、想像もできない巨大建築です。

 しかし、970年に源為憲(ためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に「雲太(うんた)和二(わに)京三(きょうさん)」という文章が出ています。
 これは建物の高さの順番を示すもので、雲太は出雲大社が一番、和二は奈良の東大寺大仏殿が二番、京三は平安京の大極殿(だいごくでん)が三番という意味です。
 東大寺大仏殿は高さ45mですから、少なくとも10世紀に建っていた出雲大社は、それよりは高いということになります。
 また1190年に出雲を訪れた寂蓮法師が「天雲のなびく山のなかばまで片そぎのみえけるなん/この世のことともおぼえざりける」という文章を残しています。
 片そぎというのは縦方向に切断した千木のことで、天雲のなびく山は高さ32丈(96m)の「八雲山」で、その半分くらいの高さに千木が見えるという意味ですから、16丈(48m)はあったということになります。
 そうするとTBS放送センターの高さ(95m)は無理としても、テレビ朝日本社ビル(45m)を越える高さは現実ではなかったかと思われます。

 そして、もう一つ決定的な証拠が2000年4月に登場しました。
 出雲大社の宮司は初代から現在の84代まで千家(せんげ)家が司っていますが、その千家家に「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」という建物の平面図を描いた1枚の絵図が伝わっています。
 それは9本の柱で支えられた四角の建物の平面図ですが、書き込まれている数字が異常な大きさなのです。
 まず柱の直径が1丈(3m)で、「引橋」とかかれた本殿と地面を結ぶ階段の長さが1町(109m)と書いてあるのです。しかも柱は3本の丸太を1本に束ねたように描かれています。
 本居宣長が『玉勝間』で初めて一般に紹介して知られるようになったのですが、あまりにも巨大すぎて研究者は空想の産物と無視してきました。
 ところが2000年4月に、出雲大社の発掘調査の現場から、その図の通りの巨大な柱が出土し、さらに他の柱のある場所を図面から推定して発掘したところ、そこからも巨大な柱が出土したのです。
 この柱の年輪から推定してみると、1227年頃の大木だということが分かりましたが、出雲大社は1225年に倒壊し、1229年から再建が始まり、1248年に完成していますから、その再建された建物の柱だということが明らかになりました。
 そこで、俄然、本居宣長の「中古には16丈」という表現が正しく、鎌倉時代には高さ48mの出雲大社が存在していたということになりました。

 実は大変に先見の明のある企業があり、現在から20年以上前も前に、この図面などを参考に、1町(109m)の引橋と16丈(48m)の高さの建物は可能であることを証明する出雲大社を復元設計したのです。
 建設会社の大林組が京都大学の福山敏男名誉教授の指導のもと、構造計算なども行って、古代の技術でも十分に可能だということを確かめた設計図や透視図を1988年3月発行の『季刊大林』第27号に発表しました。この透視図は大変な話題になり、古代の日本の姿を多くの人に知らせることになりました。

 ところで、なぜ千数百年以上前に、このような想像もできない建物が建設されたかが第二の秘密ですが、それは来週、ご紹介しようと思います。





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