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論文

 先週は出雲大社の建物の秘密をご紹介しましたが、要約すると、少なくとも中世には、奈良の東大寺大仏殿を凌ぐ高さ50m近い日本でもっとも高い巨大な木造の建造物が出雲地方に存在していたということです。
 そして国宝に指定されている現存の本殿でも高さ24mもあり、神社建築では日本でもっとも高い建物です。
 現在では山陰地方といわれる、どちらかといえば日本の中心ではない地域に、何故、そのような巨大な建造物が建てられたかを、今日は探ってみます。

 日本の神社の双璧は伊勢神宮と出雲大社ですが、伊勢神宮は神明造り、出雲大社は大社造りといわれ、ともに神社建築の最古の形式を伝えています。
 伊勢神宮は屋根の正面に入口がある「平入り」、出雲大社は側面に入口のある「妻入り」、伊勢神宮は千木の先端が水平に切られているのに対し、出雲大社では垂直に切られています。
 伊勢神宮は有名な20年毎の式年遷宮という建替えが行われていますが、出雲大社は60年毎の遷宮の儀式が行われていたというような違いがありますが、それ以外にも違いがあります。

 やはり先週、出雲大社の神楽殿には日本で2番目に大きい注連縄があるとご紹介しましたが、その注連縄が参拝者の方から見て右捻りになっていますが、日本の大半の神社の注連縄は左捻りです。
 我々は「二礼二拍手一礼」で神社に参拝しますが、出雲大社では「二礼四拍手一礼」で参拝します。
 全国には同じ形式で参拝する神社がいくつかありますので、出雲大社だけではありませんが、全体からはきわめて特殊です。
 しかし、出雲大社だけの最大の特徴は、どの神社でも本殿の中の神様の位置は参拝する人に対して正対している、すなわち参拝者に向い合っているのですが、出雲大社では、正対しているのは「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」など5柱の神々で、主神の大国主神(おおくにぬしのみこと)は参拝者から見ると左を向いた横向きになっているのです。

 なぜ、出雲大社は日本の大半の神社と異なる特徴があるのかを知るためには、なぜ出雲大社が作られたかを知る必要があります。
 その秘密は日本最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』に書いてあるのです。
 要約すると、高天原に居られた天照大神が「正式には豊葦原千秋長五百秋水穂国(とよあしはらの/ちあきながいお/あきのみずほのくに)といわれる出雲地方の葦原中国(あしはらのなかつくに)は自分の子供の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が統一して治めるべきだ」と一方的に宣言され、そこを治めていた大国主神のところへ、国を譲るようにという意思を伝えるために天菩比神(あめのほひのかみ)を送ります。
 ところが、この神は葦原中国が気に入って帰ってこないので、次に、天若日子神(あめのわかひこのかみ)を送りますが、この神も大国主神の娘の下照比売(したてるひめ)と結婚して帰ってきません。

 そこで天照大神は三度目として、高天原で最強の建御雷神(たけみかづちのかみ)を送り込みます。
 この神は浜辺に剣を差して、大国主神に国を譲るように強引に要求しますので、この喧嘩腰に困った大国主神は2人の息子に相談します。
 その一人の事代主神(ことしろぬしのかみ)は譲ることに承諾し、自身は海に身投げしますが、もう一人の建御名方神(たけみなかたのかみ)は力比べをして、建御雷神が勝てば譲るという提案をします。
 結果、建御名方神が負け、大国主神は葦原中国を譲ることを承諾しますが、条件を付けます。
 それは高天原の宮殿と同じような、太い宮柱で支えた千木が高く上がった建物を造ってくれれば、そこに隠れるという条件です。
 現代風に解釈すれば、最初の二人の使者は籠絡したが、三番目の建御雷神には戦闘で負け、領土を譲り、大国主神も死ぬことになったということです。

 1984年に出雲にある荒神谷遺跡で358本の銅剣が出土しました。それ以前に日本全国で発掘された銅剣が300本くらいですから、1カ所で全国を上回るという大変な数です。また、1996年には、やはり出雲の加茂岩倉遺跡で39個の銅鐸が発見されました。
 これらを見ても葦原中国が強大な地域であったことが分かり、高天原も征服するのに苦労したということではないかと思います。

 その大国主神の要求条件に合わせて建造したのが出雲大社というわけです。
 そこで、先程ご紹介した、注連縄が逆捻りになっているのは大国主神を封じ込めるため、二礼四拍手一礼は四=死を意味し、これも封じ込めるためという解釈が登場します。
 さらに大国主神の前に祀られている5柱の神は高天原系の神ですから、5柱で大国主神を封じていると解釈できます。
 そして当時の日本と朝鮮半島の関係では、高天原は百済と関係が深く、葦原中国、すなわち出雲は新羅と関係が深かったので、大国主神が本殿の内部で西向きに座っておられるのは、新羅を向いているという説にもなる訳です。

 この建物が異常に高い理由を説明する、もうひとつの説があります。
 現在の島根半島と山陰本線の走っている陸地の間に宍道湖がありますが、2000年前、島根半島は島で、その西端に出雲大社が建っていました。
 その位置は朝鮮半島との間を往来する船が停泊する港で、その目印として高い建物が建てられたという説明です。
 いずれにしても、出雲大社は日本の創世記の様子を想像させる興味の尽きない建物だと思います。





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