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論文

 久しぶりの建築の秘密シリーズとして法隆寺の謎をご紹介したいと思います。
 法隆寺は世界最古の木造建築とされ、玄関にあたる中門、そこから入った回廊の内部にある金堂、五重塔、大講堂、鐘楼などすべてが国宝に指定されており、1993年には「法隆寺地域の仏教建造物」が世界文化遺産に指定されています。
 法隆寺は7世紀に建立された仏教寺院ですが、法隆寺を理解するためには、当時の仏教についての状況を知る必要があります。
 『日本書紀』によれば、仏教は552年に百済から伝わったとされていますが、当時の2大勢力であった物部氏と曽我氏で仏教について意見が対立していました。
 物部氏は神道を主張し、曽我氏は仏教を推進するのですが、後に聖徳太子と呼ばれるようになる曽我氏の厩戸(うまやど)皇子は物部氏を討伐するのに貢献し、勝利すれば仏教を広めると誓い、物部氏を没落させます。
 その誓いを守って建立したのが七大寺(四天王寺/中宮寺/橘寺/広隆寺/法起寺/葛木寺)といわれる寺院で、その一つが法隆寺というわけです。

 この由緒ある寺院の第一の秘密は、中門や金堂の柱の上下が細く、中央が太いエンタシス、日本語では胴張りといわれる形になっており、これは古代ギリシャの石造の神殿の柱のエンタシスがインドや中国を経由して日本にまで伝わってきたものだということです。
 この説を最初に唱えたのは帝国大学で初めて日本建築史の講義をした石井敬吉ですが、その後を次いだ伊東忠太が1893年に日本建築学会の機関誌である『建築雑誌』に発表した「法隆寺建築論」で「その輪郭はギリシャのいわゆるエンタシスといわれる曲線よりなり、東西交渉と結果となすに至れり」と書き、一般には伊東忠太が元祖とされています。
 この考えを広く一般に流布したのが和辻哲郎の書いたベストセラー『古寺巡礼』(1919)で、その中で「仏教とともにギリシャ建築の様式が伝来したとすれば、それが最も容易な柱にのみ応用せられたというのも理解しやすい」と書いています。
 戦前は、奈良の神社仏閣を見学する人が携えた名著ですから、この考えは一般の人々に広く浸透しましたが、多くの学者の研究の結果、確定的ではないものの、日本独自に考え出された形だという意見が強くなり、1万キロメートル以上を数百年かけて伝わって来たという、ロマンチックな夢は疑問視されるようになってしまいました。

 第二の謎は法隆寺が当初のままの建物か再建されたものかということです。
 『日本書紀』には670年に全焼したと書かれています。しかし、法隆寺の記録には火災にあったという記録がないため、長年、再建派と非再建派が対立していました。ところが、この謎は1939年に決着しました。
 1939年に敷地の発掘調査が行われ、現在の法隆寺の南東に若草伽藍と呼ばれる焼け跡が発見されたのです。
 これによって再建説が確実になったのですが、その結果、もうひとつの謎も解決することになりました。

 第三は法隆寺の伽藍配置が左右対称ではないのは何故かという謎でした。
 法隆寺の伽藍配置は多くの寺院と違い、正門を入ると、正面右側に金堂、左側に五重塔があり、左右対称ではありません。
 しかし、それ以前に建てられた四天王寺は五重塔と金堂が一直線に並んでいますし、法隆寺以後に建てられた薬師寺、東大寺などでも五重塔が左右に建てられて伽藍配置は左右対称なのです。
 これについて、大陸の人々は左右対称に執着するが、日本人は民族性として左右対称は好まないので、聖徳太子が発想された日本独自の様式だという意見が有力でした。
 しかし、670年以後に再建されたとすれば、622年に聖徳太子が亡くなられた後ですし、しかも最初に建てられた若草伽藍の配置は四天王寺と同じように、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ左右対称の形でしたから、この意見はあえなく消滅しました。

 これで明治時代以来の主要な謎が解決したということでしたが、1972年に新たな謎が登場しました。
 歴史学者の梅原猛さんが『隠された十字架』という本を出され、その中で法隆寺の中門は4間で、正面の中央に柱が立っているという特殊な構造になっているが、これには意味があると言われたのです。
 これは645年の「乙巳(いっし)の変」から翌年の「大化の改新」に到る時期に、後の天智天皇となる中大兄皇子と藤原鎌足が聖徳太子の家系になる蘇我入鹿を暗殺し、曽我氏を滅亡させますが、それに対する聖徳太子の怨霊を封じ込めるために建てられた寺院だという意見です。
 最近の年輪年代測定法によると、現在の法隆寺に使われている木材は650年代末に伐採されているようなので、年代的には符合することになります。
 そして日本の寺院のほとんどは3間、5間、7間など間口は奇数で、入口は柱の間にあります。ところが、法隆寺の中門は4間で入口の中央に柱が立っている例外的な建物なのです。

 これは以前ご紹介した出雲大社の正面は2間の妻入りで中央に柱があり、大国主命の怨霊を封じ込めるためといわれる構造にも取り入れられており、梅原説も成り立ちますが、日本で怨霊信仰が成立するのは奈良時代末期であるため、歴史学者は否定的です。
 いずれにしても1300年以上の過去の話ですから様々な謎がありますが、このような歴史を知って見学すると、興味深いと思います。





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