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論文

 先週は函館から放送させていただきましたが、その函館について日本最初というテーマで紹介させていただきたいと思います。
 函館は神戸、長崎と並んで日本三大夜景どころか、イタリアのナポリ、中国の香港と並んで世界三大夜景の場所として北海道でも観光客が多い場所ですが、昨年は開港150周年記念事業を開催し、盛り上がりました。
 安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結された「日米修好通商条約」によって、横浜、長崎とともに日本最初に開港されたということですが、実は箱館は横浜、長崎よりも先に開港しているという実績があります。

 嘉永7(1854)年1月にペリー提督の艦隊が前年に引き続いて浦賀に到来、徳川幕府に5カ所の開港を迫り、結局、3月3日(3月31日)に「日米和親条約」によって、限られた目的の寄港だけにつき下田と箱館を開港することになります。
 そこでペリー艦隊は4月15日(5月30日)に視察のために函館に入港します。
 これが当時の住民にどれほど脅威であったかというと、アメリカ人は淫らで欲深く短気だから、婦女子を隠し、葬式は夜間に男だけで行い、海岸に面する障子には目張りをし、箱館山の神仏への参詣は禁止するというお触れが出されたほどです。

 ところが、この突然の入港によって、箱館にもう一つの日本最初が登場します。
 ペリー艦隊が箱館に滞在中、2人の水兵が死亡し、その埋葬を求められます。
 外人墓地というと、横浜の「山手外国人専用墓地」が有名ですが、ここも嘉永7(1854)年にマストから転落したアメリカの水兵を埋葬したのが最初ですから、函館にも日本最初の外国人墓地があるということになります。

 この外国からの開国の圧力で実現した日本最初が、箱館戦争の戦場となり、現在も函館の観光名所になっている「五稜郭」です。
 これは安政4(1857)年に建設に着手し、20万両(300億円)以上の資金と8年近くの年月を費やして元治1(1864)年に完成した西洋式の築城です。
 上空から見ると星形をしたヨーロッパにある城郭の形をしていますが、設計は日本人の武田斐三郎(あやさぶろう)という蘭学者で、西洋の書物のみを参考にして、これだけの構造物を設計し建設したわけですから、当時の洋学の水準の高さが伺えます。
 この武田という人も、なかなかの人物で、安政3(1856)年に箱館に「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)」という西洋技術を教育する学校が開かれたときに教授に任命されています。
 徳川幕府が江戸の九段坂下に「洋学所」を開校したのが、前年の安政2(1855)年ですから、残念ながら最初ではありませんが、日本で2番目に古い西洋技術を研究教育する学校が箱館にあったということになります。
 武田は安政6(1859)年から翌年にかけて、箱館奉行所が保有していた箱館丸」に学生を乗せて日本一周を成功させており、これは日本最初の実習船による訓練ということにもなります。

 このような開花の気風のあった都市ですから、他にも日本最初が数多くあります。
 外国の脅威が身近なため、大型船が必要ですが、幕府に掛け合ってもらちがあかず、箱館奉行が造船術を学んだ経験のある続豊治(つづきとよじ)に建造を命令します。
 そこで函館に入港する外国の帆船を詳細に観察し、安政4(1857)年に56トンの「箱館丸」、2年後に46トンの「亀田丸」を建造します。
 日本人だけで建造した西洋帆船の最初とされていますが、この「箱館丸」は武田が日本一周をし、文久1(1861)年にはロシアの沿海州までの調査に使った船ですが、暴風雨にもビクともせず、日本人の技術力の高さを示しました。

 ビジネスでも日本最初があります。
 1883年に津軽海峡に生物の分布境界線があるということを発表した冒険家で貿易商のイギリス人のトーマス・ブラキストンという人が、途中一時帰国しますが、1861年から1884年まで函館に滞在します。
 このブラキストンがスコットランドから蒸気機関で動く製材機械を輸入し、1864年に箱館に製材工場を建設しますが、これが日本最初の機械式製材工場です。
 このブラキストンに博物学や気象学を学び、気象観測器械を譲り受け、明治5(1872)年に函館に気候測量所を開設したのが福士成豊という人です。
 東京気象台が開設されるのが3年後の明治8年ですから、これも日本最初です。

 あまり知られていない函館の日本最初は天然痘に対する種痘をおこなったことです。
 文化4(1807)年に択捉島に居た日本人中川五郎治がロシアに捕らえられ、6年間、シベリアに抑留されますが、ロシアで種痘の実際を見聞し、帰国するときに種痘の方法を書いた書物を持ち帰ります。
 この中川五郎治は帰国後、松前藩の足軽になりますが、文政7(1824)年に天然痘が流行したときに、種痘を行い、多くの人を救ったと記録されています。
 一般には、日本での種痘の最初は嘉永2(1849)年に長崎でオランダ人が実施したのが最初と言われていますが、それより25年も前のことです。
 当時は通信手段が十分ではなく、特に蝦夷地といわれた北海道への通行は厳しく制限されていましたから、情報の伝播には時間がかかり、このような知られざる日本最初も色々存在していたのだと思います。

 さらに、現代になっても函館は日本最初を追い求めている都市です。
 函館の観光というと、函館山から世界三大夜景を楽しむとか、五稜郭タワーから内を見下ろすということですが、もう一つ人気の場所が金森倉庫です。
 これは函館湾に面したレンガ倉庫群をビアホールや土産物店や音楽ホールに変えた場所で、1980年代から再利用が行われていますが、壊されようとしている古い建物を改装して利用する先頭を切った事例です。
 また函館市内には洋館建築が多数ありますが、それらを持主の許可を得て、若い人々が外壁を塗り直すという活動でも日本最初の事例です。
 函館市は現在人口26万7000人程度ですが、10年後には23万8000人と3万人も人口が減ると予測され、かつて函館の産業を支えた造船も衰退の一途で元気がありません。
 しかし、ほんの150年前には、今日、御紹介したように、日本の最先端都市であり、最近でも都市開発の先端を行った都市だということを思い出し、新しい展開を考えていただければと期待します。





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