TOPページへ論文ページへ
論文

 先週の金曜と土曜の丸2日間、東日本大震災で被害の大きかった岩手県の宮古市、山田町(やまだまち)、大槌町(おおつちちょう)のカヤック仲間の友人を見舞いに現地に行ってきました。
 すでに一ヶ月以上が経っていますので、一部は片付けられていますが、それでも処分場が見つからないために、瓦礫が山積みになっている現地に行くと、新聞やテレビジョンの報道では分からないことが色々とありました。

 第一は、人工物は脆弱であるが、自然物は強いということでした。
 被災された方には申し訳ありませんが、今回の津波は桁違いの威力であったため、木造の家屋が破壊されたことは仕方がないと思いますが、鉄筋コンクリートや鉄骨の建物も多くが破壊されました。
 しかし驚いたのは、以前にも番組で紹介した宮古市田老の万里の長城といわれる高さ10mの防潮堤も破壊されていましたし、田老の漁港の海の中に建設された防波堤が細切れになり、横倒しになっていたことでした。

 ところが、この田老の漁港から海に出ると、外側に「山王岩(さんのういわ)」といわれる、男岩、女岩、太鼓岩と呼ばれる3つの巨大な岩が岸近くの海中に立っている絶景があり、岩手県指定の天然記念物になっています。
 男岩は高さ50mほどの細長い岩ですし、太鼓岩は直径10mほどの丸い球のような岩が海中に座っている岩です。
 地元の友人が、ひょっとしたら細長い男岩は津波で折れているかもしれないというので、崖のそばまで眺めに行きました。
 行ってみると、以前、すぐ横をカヤックで通過した景色のままでした。
 人工物にしてみると、15階建ての細長いオフィスビルのような形で、防波堤もない海に直面していますから、津波の力を真っ正面から受けたはずですが、何ともなかったのです。
 その付近の海岸では地面から12m位まで波が来た痕跡がありますから、それに耐えたということです。

 さらに海岸を南の方に進むと、国の天然記念物に指定されているロウソク岩があります。
 高さ40m、頂上の幅が7m、足元の幅が3mという、まさに和蝋燭のような形をしています。
 この岩も太平洋に直面していますから、津波を正面から受けたはずですが無事でした。
 いずれも白亜紀の地質ですから1億年程度の時間が経過した自然です。
 当然、これまで何万回もの巨大津波に直面して来たはずですが、生き残ったわけで、改めて、人間の技術は自然に比べてそれほどのものではないということを知る必要があると思いました。

 別の驚いたことは、各地で鳥居や神社、またお寺の大半が無事だったことです。
 例えば、高さ10mの防潮堤を津波が超えて来た田老では、住宅地は全滅と言っていい状態でしたが、その背後に作られていたお寺の本堂は足元まで津波が来ていましたが無事でした。
 また、宮古の港を出て浄土が浜という景勝地にカヤックで向かうときに目印にする「龍神崎」という岬があり、その先端の岩礁の上に龍神様と呼ばれている祠と鳥居があるのですが、これも残っていました。
 今回、多くの方々が神社や寺院の境内に逃げ込んで無事だったのですが、このような建物は歴史的な経緯を知って場所を選んで来たのだと思います。

 今回の東日本大震災の被害を受けた青森、岩手、宮城の3県の太平洋岸には、犠牲になった方々を供養し、津波のときの教訓を後世に伝えるために数多くの石碑が建てられています。
 2000年時点での調査では、1611年の慶長三陸津波に関するものが3基、1896年の明治三陸津波のときに立てられた石碑が124基、1933年の昭和三陸津波のときのものが157基など、316基が分かっています。
 それらは犠牲者を供養するだけではなく、青森県階上町(はしかみちょう)の海岸にある昭和三陸津波の碑には「地震海鳴りほら津波」と書いてあり、地震が起こり、海の方で大きな音がしたら、すぐに津波が来るという警告が記録してあるのです。
 宮古市の姉吉(あねよし)という地区の海抜60mの高台にある石碑には「高き住居は児孫の和楽/想え惨禍の大津波/此処より下に家を建てるな」と書いてあり、実際、今回もこの石碑の足元まで海水が来たそうです。

 このような教訓は土地の名前にも残っており、今回の被害の大きかった仙台市若林区には「浪分神社」という名前の神社があります。
 これは海岸から5・5km内陸の海抜5mの場所にあるのですが、神社は869年の貞観地震のときに建てられ、1611年の慶長三陸津波のときにも、ここまで津波が到達して二手に分かれて引いていったと伝えられています。
 しかし、この神社の名前の意味は忘れられ、それより海岸に近い場所に住宅地が出来、今回、多くの方が亡くなられました。
 明治以来、何度かの市町村大合併や郵便配達の便利さのために、古い地名が急速に消えていき、その地名に残されていた情報も消えていきました。
 例えば、東京都港区の六本木1丁目あたりは、昭和42年までは麻布谷町という地名で、それ以前は今井谷村でした。
 そうすると、この辺りは低地であったことが分かりますが、最近では、たまに豪雨で道路が水没するときくらいしか実感できません。
 自然の力の前には人工の力はそれほどでもなく、むしろ技術の十分ではなかった時代に人々は天災を避ける工夫をして来たのだと今回の旅行で実感しました。温故知新は現在でも必要です。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.