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論文

 今日は本多静六という林学者を紹介させていただきますが、何故かというと、2日後の6月1日が開園記念日である東京都心の日比谷公園を設計したのが、この本多静六だからということです。
 東京の方には馴染みのある日比谷公園は皇居の内堀のすぐ外側にある都市公園で、江戸時代までは大名屋敷のある場所でした。
 しかし、明治維新になってそれらの屋敷がなくなり、日比谷ケ原という更地になっていました。
 明治4年(1871)になって一帯は陸軍操練所(後に日比谷練兵場)という軍隊の訓練をする場所になりましたが、明治21年(1888)になって、練兵場は現在の明治神宮外苑の場所に移されました。
 ふたたび空地になったので、霞が関の官庁街の拡張用地にしようとしたのですが、元々は日比谷入江を埋立てた場所で地盤が悪く、現在の都市計画委員会に相当する東京市区改正委員会が公園にしようということにしました。
 当初は金沢の兼六園や水戸の偕楽園のような回遊式日本庭園にしようという意見が多かったのですが、明治20年代にもなると西欧社会を視察した人間も増えてきており、パリ、ロンドン、ニューヨークにあるような市民が自由に散策できる都市公園にしようという意見が主流になってきました。

 そこで何案かが提出されますが、いずれも採用にならず、帝国大学工科大学学長で東京市の顧問でもあった辰野金吾の案さえも採用になりませんでした。
 辰野は帝国大学の建築学科の前進である造家学科の第一回卒業生ですが、造園は専門外だったので仕方がなかったのですが、案がまとまらず困っていました。
 丁度、そのような時にドイツ留学から帰ってきて東京帝国大学の教授に就任したばかりの本多が辰野顧問の部屋に挨拶に来ました。
 そこで辰野が本多に計画を作成するように依頼したところ、公園設計は専門ではなかったのですが、ドイツで見た公園などを参考にして案を作ったところ採用となり、1906年6月1日に日比谷公園が完成したという次第です。
 日比谷公園の評判が良く、東京帝国大学教授という肩書きも手伝って、本多には全国各地から都市公園の設計依頼が殺到し、北海道の釧路市の春採(はるとり)公園から鹿児島県の霧島公園まで、すべてを自身で詳細まで設計したかどうかは別にして、全国の60近い都市公園を設計することになり、それらの中でも最大の業績が明治神宮外苑の全体計画を作成したことです。

 この本多という学者は波乱万丈の人生を送った人で、その一端を紹介したいと思います。
 本多は幕末の1866年に当時は戸数25軒という埼玉県の河原井村の庄屋の折原家の6番目の子供として生まれ、裕福な生活をしていました。
 ところが11歳の時に父親が他界したところ、巨額の借金があることがわかり、一気に極貧生活になります。
 そこで東京の知合いの役人の家の玄関番をしていましたが、18歳の時に山林学校を受験し、50人中50番の成績で何とか合格しました。しかし基礎学力がない悲しさで代数と幾何が落第し、構内にあった古井戸に飛び込んで自殺を図りますが、途中の井桁に引っかかって一命を取り留めます。その後、何とか卒業し東京農林学校に進学できました。
 24歳になった時、本多家から養子縁組が持ち込まれますが、相手は日本で4番目に女医になったという才女でした。
 気が進まなかった本多は断るつもりで髭面、乱髪で見合いの席に行きますが、相手から破談になれば生涯独身を通すと言われ、そこでドイツ留学の資金を出してくれるなら結婚するという厚かましい条件を出しましたが、何と了解されてしまいます。
 ところが実はまだ実習も終えておらず卒業論文も提出してなくて卒業できそうにありませんでした。ここでまた厚かましさを発揮して、学長にドイツ留学が決まったので来月卒業させてほしいと談判します。
 この学長もおおらかな人物で「実地演習のためドイツへの私費留学を許可す」と卒業させてくれたのです。

 何とか論文も書いて渡航しますが、ドイツの大学で勉強している最中に、義父から銀行が破産して送金できなくなったという手紙が来ました。
 そこで指導教官に相談したところ同情してくれ、必死に勉強して年限を短縮して2年で卒業して26歳の時に帰国しました。
 この指導教官も立派で、精神の自由のためには経済の自由が必要だから貯蓄と投資をするようにと貯蓄方法まで教えてくれ、それがこれからご紹介する後年の事業につながっていきます。

 帰国した本多は順調に出世し、東京帝国大学教授になるとともに、全国の公園を設計し、明治神宮の森を作るのにも貢献しますが、もう一つ日本の国立公園の制度を作るのにも貢献しています。
 当時としては異例ですが、10数回も海外に出張して世界の国立公園を見学してきた結果、日本にも必要だと考えた本多は1927年に民間の「国立公園協会」を設立し副会長に就任しますが、やはり国の組織が必要だと考え、当時の内務大臣に陳情に行き、自分の貯金3万円を委員会の費用として差し出して依頼した結果、1930年に国立公園調査委員会が設置され、翌年に国立公園法が成立しました。
 この頃の3万円は現在の6000万円に相当しますから、半端な金額ではありません。
 この国立公園にはエピソードがあり、本多などの努力で、1934年に日本で最初の国立公園の一つ阿寒国立公園が誕生しますが、その土地の相当部分は本多を超規則的に卒業させてドイツ留学を可能にしてくれた東京農林学校の前田正名(まさな)校長が寄贈された土地だったのです。
 45年後に見事に恩返しをしたことになりました。

 ところで何故6000万円という大金が手元にあったかというと、ドイツで極貧の生活をしていた時の恩師の教えで、帰国してから月給の4分の1を天引き貯金し、それを株式、山林、土地の購入に充てていたからですが、それは自分のためではなく、若い人に自分の留学時代の苦労をさせないためでした。
 その森林は1930年に埼玉県の県有林として寄付し、純益の半分を本多育英基金として学生に与えて来ましたが、これは現在でも本多静六博士奨学生として続いています。
 しかし、そのようなことが表に出ることを嫌い、森林の中に県有林記念碑が建てられた時には、恥ずかしいからと長男を出席させたほどです。
 現在でも事業に成功した実業家が奨学金、研究資金、表彰制度などに財産を投入しておられますので、昔の人は偉かったということではありませんが、清々しい話です。





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