TOPページへ論文ページへ
論文

 今日はニコラ・テスラという科学者について紹介したいと思います。
 テスラというと、現在では大半の方はイーロン・マスクが創業した自動車会社テスラを思い浮かべられると思いますが、この名前はニコラ・テスラという天才科学者の名前に因んだものです。
 ニコラ・テスラは1856年に当時はオーストリア帝国の一部であったセルビアに生まれた天才です。
 セルビアでは大変に尊敬されている人物で、セルビアの紙幣にはテスラの肖像が印刷されていますし、セルビア出身のテニスの名選手ノバク・ジョコビッチは2015年に、テスラの誕生日の7月10日に「今日は忘れてはいけないあの偉大な人の誕生日、決して夢を諦めなかった偉大な人!ニコラ・テスラ」とツイートしています。さらに愛犬の名前もテスラだそうです。

 どのくらい天才かというと知能指数(IQ)が240と推定されています。
 これを超えるのはコンピュータの原理を発明しただけではなく、数学、物理学、工学などはもちろんですが、経済学や心理学などでも異常な才能を発揮したジョン・フォン・ノイマンのIQ300、夭折した数学者エヴァリスト・ガロアのIQ250、同じく数学者ヨハン・フリードリヒ・ガウスのIQ250程度しかいません。
 知能指数は年齢相応の知能を100として、70から130の間に95%の人が収まるような計算をしますから、240というのは極めて稀な存在です。
 テスラの業績だけを列挙しても、交流発電・送電技術、蛍光灯、現在のドローンに相当する無線操縦できる垂直離着陸機技術などを発明し、800以上の特許を取得しています。
 さらに無線通信も発明していたことが後で分かりました。
 無線通信というとイタリア人のグリエルモ・マルコーニが発明したとされていますが、テスラはそれ以前に無線装置の基本回路を開発して特許を取得しており、アメリカの最高裁判所はテスラの特許がマルコーニの特許を無効にすると認めています。

 1856年に現在のセルビア共和国に誕生しますが、このセルビアが位置するバルカン半島では10以上の言語が使用されており、多数の言葉を話せる人が多いのですが、テスラも8ヶ国語が話せたと言われています。
 その能力を活かしてオーストリアのグラーツ大学、チェコのプラハ大学で勉強し、1881年、25歳の時にパリでアメリカの会社ゼネラル・エレクトリックに勤務し、3年後にアメリカに渡ってエジソン電灯会社に就職します。
 この会社は直流の電気を発電し、家庭に直流で送電していましたが、テスラは交流発電、交流送電の方が優れていると主張したため、エジソンと決裂し、数ヶ月で退職してしまいます。
 エジソンとは生涯、仲が悪く、1915年にはエジソンと一緒にノーベル物理学賞候補になりますが受賞せず、再度1930年代にも候補になりますが、これも受賞しませんでした。
 さらに1916年には生活に困っているテスラを救おうとアメリカ電気工学協会がエジソン勲章を授与しようとしますが、それも一旦は断って、翌年、ようやく受賞しました。
 その原因は交流を否定されたことではなく、エジソンが約束を破ったことを許せなかったからだと言われています。
 エジソンが直流で作業をしている工場を交流電源で稼働させることができたら5万ドルを支払うと提案したため、テスラは実現させたのですが、エジソンは「あれは冗談だった」と言って支払ってくれなかったので、激怒してエジソンの会社を辞職したのです。

 そこで翌年の1887年に「テスラ電灯会社」を設立し、交流電源の電気供給の特許を取得しています。
 これに目をつけたのがエジソンのライバルのジョージ・ウェスティングハウスで、テスラに100万ドルの研究費と特許使用料として発電機1馬力ごとに1ドルを支払うことを提示して、交流発電と交流送電を推進します。
 これが一気に躍進したのは、コロンブスがアメリカを発見してから400年を記念してシカゴで開催されたシカゴ・コロンブス博覧会の会場の電力システムをウェスティングハウス社が構築し、交流が優れていることが一気に世間に広まりました。
 この勝負は現在の世界の発電と送電の普及状態を見れば明らかで、テスラの勝利でした。
 それ以外にも自動車のエンジンの点火プラグ、船舶模型の無線操縦、垂直離着陸機など数多くの発明をしています。

 1943年にテスラがニューヨークのホテルで死亡した時には重さで数トンにもなる発明品や設計図があったのですが、第二次世界大戦中で、これらの文書がソビエトに渡っては大変ということで、FBIがすべて押収しました。
 戦後になって、FBIはそれらをすべて複製し、本物はセルビア共和国の首都ベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にはユネスコの記憶遺産に登録されています。

 天才的科学者にありがちな奇人でもあり、極端な細菌ノイローゼで、毎日、レストランの専用の席で食事をし、まず多数の清潔なナプキンを持って来させてナイフやホークなどを自分で拭い、そのテーブルは他人には使わせませんでした。
 身だしなみについても、手袋とネクタイは1週間ごとに新品に替え、絹のワイシャツやハンカチは大量に買って、一度使えば捨てていました。
 便所も自分専用で、終わると秘書が新品の手ぬぐいを差し出し、使い終わったら捨てていました。
 身長180センチメートル、体重64キログラムの格好いい男性でしたが、当然のように生涯独身でした。
 睡眠は毎日2時間程度で、1年に1回は5時間だけ寝て、それで十分だと言っていました。
 趣味はハトにエサを与えることで、ニューヨークの公共図書館前の広場やセントパトリック寺院前の広場でハトにエサを与えていましたが、病気になってからはホテルの室内でハトを飼いエサを与え、1943年にホテルの一室で死亡しました。
 IQ240という世界に何人も居ない天才の精神は凡人には分からないものです。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.