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論文

 昨日、東京と名古屋を結ぶリニア中央新幹線の路線と中間の4カ所の駅(相模原/甲府/飯田/中津川)の場所を示す「環境影響評価準備書」がJR東海によって発表されました。
 順調に進めば来年から工事が始まり、13年後の2027年には東京と名古屋間286kmを40分で結ぶ鉄道が開通することになります。
 これまでも大略の路線や駅の位置示されていましたが、その地図では路線は幅3キロメートルの帯で、駅は直径5kmの範囲で示され、今回のようにピンポイントではありませんでしたので、今回の確定には地域ごとに悲喜こもごもの想いがあると思います。

 問題は、この鉄道と駅によって、これからの地域がどのような影響を受けるかということになります。
 江戸時代は舟運が中心でしたので、利根川や北上川など大河の周辺が発展しましたが、明治時代になって鉄道が全国に展開し、舟運が衰退し、鉄道の沿線が発達しました。
 さらに戦後になって自動車時代が始まり、鉄道の廃線が相次ぐようになり、またまた地域情勢が変化してきましたが、今回のリニア中央新幹線でどのような変化が地域に発生するかは興味あるところです。

 そこで歴史を遡って、明治時代以後に鉄道が通った地域と通らなかった地域の比較をしてみたいと思います。
 明治の鉄道は蒸気機関車でしたので、騒音、煤煙、火の粉などをまき散らすため、結構、嫌われていました。
 明治5(1972)年10月14日に日本最初の鉄道が新橋と横浜の区間に開通し、29kmを53分で走りました。
 このとき薩摩藩の藩邸や兵部省の施設が高輪にあったのですが、両者が土地の明渡しを拒否したため、現在の田町と品川の区間は海中に堤防を建設して、そこにレールを敷いて走らせました。
 高輪は現在では高級住宅地となっていますから、結果は良かったかも知れませんが、不便な場所になりました。

 明治27(1894)年には東京の錦糸町から千葉県の佐倉市まで総武鉄道が建設されますが、当初の計画は錦糸町から行徳を通って船橋へ出て佐倉市に向かう予定でしたが、行徳は水運業が盛んであったため地元の村民が鉄道に反対し、路線は錦糸町から小岩、市川を通って船橋に向い、行徳を大きく迂回することになりました。
 その結果、昭和31年に行徳町は発展した市川市に合併されることになりますが、総武鉄道が通っていれば、行徳が市川を合併することになったかも知れません。
 75年後の昭和44(1969)年には営団地下鉄東西線が開通し、行徳にも鉄度が通るようになりますが、地域の発展に大きく影響した反対運動でした。

 現在の山手線の西側部分は明治18(1885)年に品川線として品川から赤羽で開業しましたが、別途開通していた東側部分の上野と田端の区間と結ぶ計画が登場します。
 当初は目白駅から田端に向かう予定でしたが、目白駅周辺の住民が反対したため池袋駅から田端に連絡し、明治34(1901)年に山手線が誕生します。
 山手線が池袋から一旦、大塚の方に下がり、再び、巣鴨、田端に上がって行くV字型になっているのは、このような経緯です。
 目白は池袋のように発展しませんでしたが、閑静な住宅地となり、結果は良かったかもしれません。

 東京周辺の話ばかりしてきましたが、全国にも同じような例は多数あります。
 4年前に、佐賀県嬉野市で明治20年代に九州鉄道会社が計画していた鉄道路線や駅の位置の詳細な地図が発見されました。
 佐賀県の武雄市から長崎県の大村市に到る鉄道の路線の計画図でした。
 現在の路線を見ると、武雄から佐世保のほうに向い、早岐(はいき)で分岐して南下し、大村に向かうようになっていて、非常に大回りになっていることに気付きます。
 もし、武雄から大村に向かうことが目的であれば、武雄から南下して嬉野を通って行けば最短になるのですが、なぜ迂回しているかというと、嬉野温泉の住民が鉄道が通ると温泉客が通過して宿泊客が素通りすると反対した結果です。
 一方、現在の佐世保線が通っている有田は積極誘致したために、そちらに決定したという次第です。
 嬉野町史によると「武雄(温泉)に大差を付けられ、百年の悔いを残した」と記録されており、反対は失敗だったと気付いたときには後の祭ということでした。
 この反省から、現在建設中の九州新幹線長崎ルートには嬉野市が積極誘致をし、新発見された図面とほぼ同じ路線になっています。
 百年の後悔で今度は成功したということになります。

 しかし、当初から鉄道の重要性に気付いて積極的に誘致した都市もあります。
 明治16(1883)年に明治政府は東京と大阪を結ぶ鉄道を中山道の道筋に建設し、大垣から京都に向かう計画を発表しました。
 なぜ東海道ではなく中山道にしたかの理由は、東海道の海岸線を通ると海上からの艦砲射撃によって鉄道が破壊されるので、山の中を通そうという発想だったからです。
 そこで、現在で言えば名古屋市長や愛知県知事に当たる人々が猛反対し、中山道路線の工事の困難さなどを政府に訴えた結果、明治19(1886)年に計画が変更になり、明治22(1889)年に名古屋を経由する東海道本線が開通しました。
 昨日の発表によって、奇しくも明治16年の政府の構想した中山道を通るのに近い路線の工事が来年から始まるわけですが、途中の4カ所の駅の周辺にどのような影響を及ぼすかは興味深いものがあります。





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