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論文

 今年は、日本のみならず世界の戦後を代表する建築家丹下健三の生誕100周年にあたり、各地で記念行事が開かれています。
 私も丹下健三先生の末席の弟子でありましたので、そのような公式の行事では話されないエピソードによって、この20世紀の偉大な建築家の人間として興味のある側面を御紹介したいと思います。
 一言に要約すれば、世間の常識に囚われない天才ということになります。
 私が接した最初は大学2年の授業のときで、当時は東京大学の助教授でしたが、すでに世界的に有名であったので、欠席する学生も居ない満席でした。
 古代ギリシャのアゴラという広場が、どのような経緯で設計されたかを説明され、建築は権力の意向を表現するのではなく、言葉では表現されない民衆の気持を汲み取って表現しなければいけないというような、なかなか感動的な内容でした。
 ところが授業の最後に「私は忙しいので授業はこれで終わりにし、私の考えを1冊にまとめた建築雑誌を皆さんに1冊ずつお渡ししますから、あとの半年は自分で勉強して下さい」ということになりました。
 現在のように世知辛い時代ではありませんので、我々は歓声をあげ、高価な雑誌まで一人に1冊ずつ無償で渡す立派な先生だということになりました。

 次に驚いたのは、芸術家としては当然ですが、自分が設計した建物には絶大な自信をもっておられますから、色々と事件が発生することです。
 有楽町にあった旧東京都庁舎は指名競技設計によって丹下健三案が選ばれて実現したのですが、まだ当時は高さ制限があったので、面積を増やすために天井を低くして階数を増やし、廊下も狭い設計になっていました。
 新しい庁舎が使われはじめてしばらくしたら、都庁の職員が使いにくいという苦情をいったのが新聞記者に伝わり、その記者が丹下先生に意見を聞きにきたことがあります。
 その答えはあっさりと「私の設計した建物を使いこなせない職員に問題があると思います」ということで、物議をかもしたこともありました。

 その意志の強さを実感したことがあります。
 私は設計に関心がなかったので、コンピュータを使って交通計画や土地利用計画を最適にする計算などをしていたのですが、ある仕事を丹下先生から手伝えという命令がきました。
 それは某県の某大学を郊外に移転することになったが、最適の場所をコンピュータで探せという仕事でした。
 そこで対象となる広大な範囲を500m角ほどの升目に区切り、それぞれに幹線道路からの距離、土地の値段、敷地の勾配、日照条件などの数値を入れ、それらを組合わせて最適の場所を探すというプログラムを作り、色々な条件で計算をしては、先生にお見せするのですが、「そうですか、もう少し検討して下さい」と言われ、何度計算しても合格になりません。
 次第に締切が迫ってきたので困っていたら、先生から「この辺りはどうでしょうか」と言われ、ようやく事情が飲み込め、その辺りが最適になるプログラムを作成して結果を示したところ「流石、コンピュータは素晴らしいですね」と一件落着になりました。
 すでに丹下先生の頭の中では適地が決まっており、関係者を納得させるためにコンピュータを駆使したという訳だったのです。
 現在と違って、1970年代のコンピュータは絶大な威力を誇っており、その某県に私が端末装置を持って行き、電話回線でアメリカのコンピュータに接続して、数百人の聴衆の前で計算し、その結果を即座にプロジェクタで大画面に投影したので異論はなく決定しましたが、翌日の地元の新聞の一面に「アメリカの頭脳が某大学の敷地を決定」という見出しになりました。

 天才は俗世間に疎いのですが、その意味でも丹下先生は天才でした。
 大学闘争の真っ最中に、東京大学の闘争拠点の一つになっていた都市工学科の学科長をしておられたのですが、各学科の長が集まって対策を議論しているときに、「ところで民青系と全共闘とはどう違うのですか」と質問され、全員が白けたということもあったそうです。
 また、あることが政治的問題になったので、丹下先生が田中総理のところに相談に行かれ、この問題はだれに相談したらいいかと質問されたら、総理が「後藤田」と言われたとのことです。
 そこで戻って議員名簿を調べても「後藤」という国会議員が見つからないので、恐れながらと総理の秘書官に電話をして、再確認したら「後藤田だ」いうことであったというエピソードもあります。

 また興味が深かったのは自分の作品であっても、残すことに執着されなかったことです。
 私が大学院の学生のとき、研究室の移動があり、学生が動員されました。
 研究室には代表的な作品の立派な模型がガラスケースに入れて保管されていました。
 それを新しい研究室に移動させようとしたら、丹下先生が全部捨てなさいと言われ驚いたことがあります。
 仲間と相談して、あとで何とかしようと倉庫に隠しておいたのですが、数メートル角もある大きな模型で、学生の分際で置き場所を確保できず、泣く泣く捨てましたが、名作の模型をあっさり捨てる気持が理解できませんでした。

 それが再現されたのが、旧東京都庁舎の処理です。
 昭和30年代の傑作として残そうという意見が建築家の間から出てきて、しばらく議論になりましたが、ご本人が廃棄して下さいと言われ決着したのですが、設計には異常な情熱を注がれても、完成した建物には執着が無いようでした。
 異常な執着が発揮されたのが、新宿の東京都庁舎の競技設計のときでした。
 鈴木都知事の選挙責任者までされた丹下先生に依頼されるという噂が立ち、批判する意見も出てきました。
 そこで本人から鈴木都知事に競技設計にするようにと依頼され、結果として文句無く選ばれるという経緯がありました。
 その設計作業の最中に設計事務所を訪れたことがありますが、すでに80代半ばでしたが、陣頭指揮をしておられ、鬼気迫る雰囲気でした。

 最近では、海外へ進出して活躍している日本の建築家も増えていますが、まだ戦後の海外渡航も自由ではなかった時代から、世界の一線で活躍されたという意味でも、偉大な建築家だったと思います。





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