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論文

 丁度1週間前の9月11日は東日本大震災の発生した日から3年半が経過した時期でした。
 そこで機会があり、先週末の三連休を利用し、大きな被害を受けた岩手県の田野畑村を訪ねてきました。
 田野畑村は岩手県の三陸海岸にある太平洋に面した人口約3800人の村ですが、海岸沿いに4つの集落があり、合計して39人の方が亡くなられたり行方不明になり、家屋もほぼ半分が全壊、1割が半壊という被害を受けました。
 この三陸海岸は「津波銀座」というありがたくない名称でも呼ばれているように、明治29(1896)年の明治三陸大津波、昭和8(1933)年の昭和三陸大津波でも大きな被害を受けており、田野畑村も明治に死者128人、昭和に83人が亡くなっています。

 現在は様々な復興事業が進行しており、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道北リアス線を久慈から田野畑まで乗車したのですが、海岸では防潮堤を修理したり、土地を嵩上げする土木工事が行われていました。
 このような土木事業による復興だけではなく、実は文化活動による復興も進んでおり、その一つが「大津波語り部」という活動です。
 これは地元の「NPO法人体験村・たのはたネットワーク」が窓口となって、津波を体験した地域の人々が、被災した現場を案内しながら、当時の状況を説明してくれるのですが、今回は4つの集落のうちで被害が大きかった「羅賀(ラガ)地区」の語り部・下坂さんに案内していただきました。

 この羅賀地区には170戸の住戸がありましたが、そのうち99戸の全壊を含めて124戸の住戸が被害を受けました。
 3年半が経過した現在、瓦礫は片付けられて、住戸のあった跡は住宅の建設が禁止になっているので、空地に雑草が生えている状態ですから、このような数字を聞くだけでは実感が湧きませんが、この石垣まで津波が押し寄せたが、石垣で方向転換して左の方へ流れていったとか、背後の山の中腹にある神社に逃げて雪の振る中を一晩過ごしたなどという状況を、津波の前と後の写真とともに現場で説明してもらうと、いかに大変な災害であったかが実感できました。
 また、明治三陸大津波のときに波打ち際から300mも離れた海面より12mも高い場所に運ばれてきた「津波石」が現在も残されており、それを見ても津波の威力が実感できます。

 この「大津波語り部」を始めないかという話があったときには、まだ生々しい記憶が残っており、行方不明者も発見されていない時期でしたから、外部の人に説明することは、なかなか決意できなかったそうです。
 私も下坂さんから話を聞く前は、被災したことを一種の売物にすることに疑問がありましたし、実際に始めてみると、集落の内部でも同じような批判をする人も居られたようです。
 ところが、たまたま3人の人が話を聞きたいという要望があったので、話をしたところ、涙を流して聞かれ、本当にここまで来て話を聞いて良かったと感激されたので、続ける決意をされたそうです。

 東北地方には有名な「遠野物語」があり、地域の文化を物語にして語り伝えるという伝統があることも影響したと思いますが、この田野畑村以外にも、岩手県の宮古市田老町、大船渡市、宮城県の石巻市、南三陸町、唐桑町、さらには千葉県の外房にある旭市など各地で行われています。
 このような体験を人々に伝える意義を考えてみると、第一は実際に役に立つということです。
 最近、田野畑村の大津波語り部のところに、関西から聞きにくる人が増えているそうです。
 理由はお分かりと思いますが、南海地震の発生が懸念され、発生した場合は紀伊半島から四国にかけて大津波が襲来する可能性が高いので、その対策として聞いておきたいというわけです。

 第二は多くの外部の人々に伝えることによって、気持の区切りがつくということです。
 それは南三陸町の語り部の方の「話すことで自分の心を整理でき、気持を分かち合える。それが生き甲斐なのです」という言葉に集約されていると思いますし、田野畑村のガイドの方も同様のことを言われていました。
 大半の人が人生で経験することのない異常な体験を心に秘めたままでは精神が破綻することになりかねないのですが、それを外に解き放つことによって心が軽くなる効果があると思います。

 第三は子孫に伝えるということです。
 もちろん避難に役立つという現実的な効果もありますが、自然の威力に比べたら、まったく弱い存在である人間がどのように自然に対処することが重要かということを理解できるためにも後世に伝える意味があるのです。
 その大変に有名な例が、岩手県の重茂(おもえ)半島の付根にある姉吉(あねよし)集落の大津波記念碑です。
 これまで実際に見たことが無かったので、カヤックで海上から姉吉の漁港に到着し、坂道を800mほど上がって見学してきました。
 写真で見たときは大きな石碑のようでしたが、行ってみたら高さ1・5m程度の小さな自然石が坂道の途中に立っていました。
 有名な「高き住居は児孫の和楽/想え惨禍の大津波/此処より下に家を建てるな」という文章が書いてあり、1933年の昭和三陸津波の後に後世に伝えるために地区の住民が建立したものです。

 その教えを守り、姉吉集落では集落全体を高台に移していたため、今回の大津波は記念碑の50m手前で止まり、家屋も人命もすべて無事でした。
 やはり昨年のこの時期の番組で、各地に1兆円にもなる巨額の資金を投入して防潮堤が補強され建設されていくことに疑問を呈しましたが、数十万円で建てることのできる石碑が立派に防災の役割を果たしていますし、日頃の訓練によって釜石市内の小中学校の生徒のほぼ全員が無事に避難した「釜石の奇跡」の例もあります。
 所詮、人工の構造物が自然のエネルギーに対抗するのには無理があるということを理解するためにも、大津波語り部の役割は重要だと思います。





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