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論文

 最近は正月三が日の神社仏閣への参拝者数は発表されませんが、いろいろな推定があります。
 2009年は3位が大阪にある住吉大社の260万人、2位が京都にある伏見稲荷大社の277万人、1位が東京にある明治神宮の319万人、2013年は3位が川崎大師平間寺(へいけんじ)で302万人、2位が成田山新勝寺(しんしょうじ)で305万人、1位が明治神宮で316万人のようですが、共通するのは、明治神宮が1位で、これは毎年、不動の地位です。

 明治神宮は東京という人口集積地の都心にあり、境内も新年に相応しい荘厳な自然環境に取囲まれているという効果があると思いますが、今年は明治神宮の創建100年目に当たるため、とりわけ参拝者が多かったと思います。
 そこで『大都会に造られた森』(1992)などを参考にし、この神社が実現した歴史を紹介したいと思います。

 明治天皇が明治45(1912)年7月30日に崩御されると、国民の間に天皇を追慕する気運が高まり、お祀りするための神社を建設する請願が全国で増加してきました。
 場所についても、青山練兵場、陸軍戸山学校、小石川植物園など東京の土地から、富士山、筑波山、箱根山など39カ所について、全国から請願や陳情があるほどでした。
 そこで半年後に貴族院と衆議院の議員が建議し、翌年12月に「神社奉祀調査会」が発足し、明治天皇と関係の深い土地を対象に実地調査をおこない、東京府豊多摩郡代々幡(よよはた)村代々木にある約70ヘクタールの御料地が選ばれました。代々木も100年前は東京市外だったのです。
 この土地は熊本藩主加藤忠広の別邸でしたが、徳川幕府の三代将軍家光が彦根藩主井伊直孝に与え、井伊家の屋敷となっていました。ところが、明治になって国に返却され、明治17(1884)年に宮内省が買上げて御料地にし、明治天皇や皇后が散策に来られていたという所以もある土地でした。
 大正4(1915)年に「明治神宮造営局」が組織され、東京帝国大学の川瀬善太郎教授や本多静六教授などが境内の造園を担当することになり、目標として「永遠の杜(もり)」を造ることとします。
 杜は「木」偏に「土」と書きますが、これは神社を意味し、万葉集でも神社と書いて「モリ」と読ませています。
 また鎮守の杜という言葉もあるし、日本最古の神社の一社とされる「大神(おおみわ)神社」の御神体は三輪山という原生林の生い茂った山であるように、古代から神社と森林は一体のものでした。

 そこで明治神宮も永遠に続く森を造るということが目標になったわけです。
 そのためには人工の森ではあるけれども、古来、武蔵野に存在していた森を作り上げれば気候風土に合って永続するだろうということで、それを再現するために、50年後にはどのような森になり、100年後、さらには150年後にはどのような様子の森になるかを想定し、カシ、シイ、クスノキなど高木を中心にして、イヌツゲ、マサキ、モチノキなど常緑広葉樹の灌木を合計80種選び、外国原産の樹木とサクラ、ツバキ、サザンカなど派手な花を咲かせる木、果実を付ける木、手入れが必要な木は除外した森林を造ることになります。

 ところが厄介な問題が発生します。
 時の総理大臣大隈重信が日光東照宮や伊勢神宮のような壮大な杉林が良いと主張し「神宮の森を薮にするのか、薮はよろしくない、当然杉林にするべきだ」と発言します。
 明治神宮の土地にはスギは適さない、常緑樹林は薮や雑木林ではないと説明しますが、「御料地の中にスギの大木もあるではないか」と主張を変更されないので、ついに御料地にあるスギの大木を何本か切ってスギの成長過程を作成し、日光のスギに比べて代々木のスギの生育が遅いことを説明し、納得していただいたという裏話があります。
 専門家によれば、大隈重信の意見に屈していれば、現在のような森にはならず、貧弱な杉林になっただけだと言うことです。
 当時の専門家が如何に卓見であったかは、この一件や150年先まで見通した計画を立てただけではなく、東京の大気汚染や蒸気機関車の煙害まで想定して樹木の種類と場所を選んでいたことからも分かります。

 この広大な面積に植林するためには10万本以上の木が必要なため、全国から献上してもらうことにします。
 希望者は樹種、高さ、太さ、本数、搬入時期を記入した出願書類を作成し、費用はすべて自己負担の条件で大正4(1915)年4月から年末までに応募するという条件でした。
 申込は殺到し、合計9万5559本が献木されます。中には盆栽など受取れない木もあったようですが、困ったことは、神宮に献納する木の名前を仮名で書くのは失礼だと、大部分が漢字の当て字で書かれており、まだ標準語が浸透していない時代でしたので、方言で書かれていたりし、その解読に苦労したという裏話もあります。
 このような準備が整って、1915年10月7日に盛大な地鎮祭が行われて工事が始まり、6年間と期限が区切られた大工事が始まります。
 ところがまたまた難題が発生します。前年から始まった第一次世界大戦が拡大し、物価が高騰したため、職人の賃金の支払が困難になったのです。
 そこで仕方なく、全国から青年団の労働奉仕を募集します。
 足手纏いになっては困るということで、18歳から25歳までの身体強健、性質純良の若者50人から60人を単位として募集したところ、全国から応募があり、約3年間で1万人以上が参加することになりました。
 まだ輸送する自動車や現在のような建設機械も普及していない時代に、人海戦術だけで工事をおこない、予定どおりの6年後の大正9(1920)年11月1日に鎮座祭が行われました。

 100周年を前にした2011年から12年に研究者による調査が行われましたが、予定より50年早く、150年後に完成すると想定されていた「永遠の杜」の状態に到達していたという結果でした。
 日本が急速に成長した時代に、国民が国家の発展を期待して一致協力した成果が明治神宮の森だということを知って参拝に行くと、その偉業が改めて理解できるのではないかと思います。





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