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論文

 先週は日本に来た外国人が驚く日本の素晴らしさを紹介させていただきましたが、足元にある宝物には「灯台下暗し」でなかなか気付かない例が多数あり、そのために重要な文化財が日本から失われていった例も数多くあります。

 一例が江戸時代の浮世絵師・東洲斎写楽の浮世絵です。
 写楽は寛政6(1794)年の5月に彗星のように登場して、10ヶ月後の翌年3月までに歌舞伎役者の似顔絵を中心とする作品を145点発表して忽然と消えてしまった謎の浮世絵師です。
 当時の人気は素晴らしかったのですが、活躍した時期が一年にも満たない短期間であったため、それ以後はほとんど忘れ去られ、写楽が誰であったかは現在でも完全には特定されていないほどの存在になっていました。
 ところが明治末期になって突然、再浮上します。
 その契機は明治43(1910)年にドイツの美術研究家ユリウス・クルトがドイツ語で「SHARAKU」という評伝を出版し、その中で「写楽こそ(17世紀のオランダの)レンブラント、(17世紀のスペインの)ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家の一人である」と絶賛したことです。
 写楽など、とっくに忘れていた日本人が、そんなに凄いのかと驚いて写楽の版画を買おうと思ったときには、すでに遅く、江戸末期から明治時代に日本に来ていた外交官や商人が多くを持ち返った後でした。
 その結果、145種類ある写楽の作品のうち、日本に残ったのは101種類、本物と確認されている706枚の版画のうち、日本に存在するのは198枚しかなく、7割以上は海外の美術館や個人が所蔵している状態になりました。
 2011年に東京国立博物館で大規模な「写楽展」が開催され、168点の写楽の作品が展示されましたが、半分以上の90点は外国の美術館から借りたものでした。

 これと同じような状況にあるのが河鍋暁斎という江戸末期から明治前半にかけて活躍した日本画家です。
 狩野派の門弟として日本画を本格的に修行すると同時に、浮世絵師・歌川国芳の門弟として浮世絵も学んだ画家ですが、明治初期に海外に名前が知れ渡っていた数少ない画家でした。
 いくつかの記録を紹介しますと、19世紀の東洋美術の収集家であったイギリス人アーサー・モリスンは「近代における狩野派の門弟で、その名声が遠く国外まで広まっていたのは河鍋暁斎である」
 開国直後の日本に記録画家として到来したフランスの画家フェリックス・レガメは「目に映ったすべてを描こうとした画家は存在する。それは北斎と暁斎であった」
 オーストリアの画家で明治時代に日本を訪問したモーティマー・メンペスは「今日の日本における最も偉大な画家の一人である暁斎に紹介された」などという具合です。

 この北斎と並び称されるほどの暁斎が忘れ去られるような状況にあった一つの理由は、江戸っ子気質で名声とか金銭に淡白であった性格によるものです。
 色々なエピソードが残っていますが、ある国の大使館の晩餐会に呼ばれ、外国人を相手に絵を描いたとき、金銭を支払おうとしたら、同情心から作品を買ってもらうなど真っ平だと言ったとか、駿河台のニコライ堂の壁画を描いていただければ謝礼は沢山払いますし、ロシアからは妻子にまで恩給が出ますと言われたとき、耶蘇の絵など御免を蒙る、恩給など要るものかと言ったという逸話が残っています。
 しかし、もう一つ大きな理由がありました。
 美術界では知られた事件ですが、明治3(1870)年10月6日に起こした筆禍事件が災いしたのです。
 この日、上野で開かれた書画会という、その場で描いた絵を客に売る会で、酔っぱらっていた暁斎が政府高官を嘲笑する絵を描いたため、逮捕されて牢屋に90日間入れられ、最後に笞打50の刑を受けて放免された事件があります。
 さらに不運だったのは、その才能を認めた岡倉天心とフェノロサの依頼で、東京美術学校の日本画の初代教授に内定していたのですが、胃癌でなくなってしまったことです。
 このような事件の影響もあり、国内では正当に評価されず、大規模な展覧会がようやく開かれたのは2008年に京都国立博物館での「没後120年記念展覧会」でした。

 なぜ今日、この河鍋暁斎を御紹介したかというと、先週の土曜日の6月27日から東京の丸の内にある三菱一号館美術館で「画鬼暁斎」という展覧会が開かれているからです。
 三菱一号館というのは赤煉瓦建築として有名な日本最初のオフィス建物で、現在の建物は2009年に再建されたものですが、ここで暁斎の展覧会が開かれるのには意味があるのです。
 この建物を設計したのがジョサイア・コンドルという明治時代の御雇外国人で、工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科)の初代教授でもあった人ですが、日本舞踊、華道など日本文化に興味があり、毎週土曜日に日本画を河鍋暁斎に習い、暁斎から「暁英」という画号を貰っていたほど親交があったのです。
 そのため今回の展覧会も副題として「幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」になっています。
 したがって展覧会には三菱一号館の設計図などとともに、コンドルの描いた日本画などもあり、今日ご紹介したような背景を知って鑑賞されると、より興味をもって御覧いただけるのではないかと思います。
 しかし、この展覧会も十数点はニューヨークのメトロポリタン美術館から借りたものですし、外国へ流出していた作品を曾孫の河鍋楠美さんが買い戻されたものも多数あり、写楽と同じようになかなか足元の価値を認められなかったということを伺わせます。
 9月6日まで開かれていますので、そのようなことも含めて鑑賞されると面白いと思います。





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