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論文

 久しぶりに「明日は何の日」にさせていただきたいと思いますが、明日は「しまくとぅばの日」です。
 意味は「島言葉の日」なのですが、私の発音が悪いわけではなく、沖縄の言葉で島の独特の言葉である琉球方言を「しまくとぅば」と言い、それを次の世代に継承していこうと、2006年に沖縄県が9月18日を「しまくとぅばの日」とする条例を制定したのです。
 条例は3月31日に制定されたのですが、9月18日は語呂合わせで「くとば」になるので、明日を記念日にしたというわけです。

 明治政府は全国に標準語を浸透させる政策を推進してきましたが、沖縄では「方言札」という厳しい罰を生徒に与えて強引に普及させてきました。
 学校で子供が方言を使うと、「方言札」という木の札を首から下げさせ、別の子供が方言を使うまで、そのままにするという手段でした。
 それでも完全な標準語にはならず、戦後は琉球方言と標準語が融合した「ウチナーヤマトグチ」といわれる言葉が使われてきました。
 しかし、世界全体が方言とされてきた地域独自の言葉を復活させようという潮流の中で、沖縄でも伝統の言葉を維持しようという機運が高まり、2006年に全国で初めての条例ができたというわけです。

 現在、世界には、とにかく数人でも話す人が残っているという言葉まで数えると6500くらいの言葉があると推定されていますが、ユネスコが2009年に発表した統計を見ると、すでに1950年までに消滅してしまった言葉が230、消滅寸前の言葉が1748、消滅の可能性がある言葉が595で、合計2573、全体の43%が危機的状態にあります。
 日本では「アイヌ語」が極めて深刻(クリティカル)な状態、「八重山語」と「与那国語」が重大(シビア)な危機、「奄美語」「八丈語」「国頭(くにがみ)語」「宮古語」「沖縄語」が大変危険(デフィニット)な状態にあると分類されています。

 その原因は交通手段と通信手段が急速に発展し、世界の多数の国々が使用している英語、中国語、スペイン語などが実用的な共通語として使用されるようになっていることです。
 実際、母語として使われている人数の順位では、1位が中国語、2位が英語、3位がヒンディ語、4位がスペイン語、5位がアラビア語になっており、日本語は9位ですが、1位から10位までを合計すると33億人になり、世界人口のほぼ半分になりますし、第二言語として使用している人口を加えると上位10言語で40億人、世界の60%になります。

 このような状況の何が問題かというと、沖縄県の条例の第一条に書かれていますが「しまくとぅばは沖縄の文化の基層であり、これを次世代へ継承していくことが重要」ということです。
 すなわち、それぞれの国や民族の長年蓄積してきた文化は言葉に凝縮されているから、言葉が使われなくなるということは、文化も消えていくということです。
 分かりやすい例が、最近、復活運動が進んでいる「大和言葉」です。
 これは中国や朝鮮半島から漢語などの外来文化が大量に流入してくる以前の飛鳥時代までに奈良を中心に話されていた日本固有の言葉です。
 いくつかの例を挙げますと「たおやか」という大和言葉があります。
 辞書では「姿形がほっそりとして動きがしなやか」と書いてありますが、「しなやか」も大和言葉なので、さらに「しなやか」を調べると「弾力があってよくしなうさま」と書いてありますが、別の言葉では「たおやかな女性」を表現する「たおやめ」にはなかなか繋がりません。
 もう一つ「ささやか」は「形や規模が大袈裟ではなく控え目なさま」となりますが、別の言葉では「ささやかな御礼」という気持にはぴったり合いません。

 このような言葉を世界的に共通な言葉、例えば英語で表現できるかと考えてみますと、「たおやか」は「グレースフル」と翻訳されます。
 私は英語が母語ではないので、正確な理解はできませんが、「グレースフル」は「優雅な」という感じはしますが、一見弱そうだけれど芯は強いという「たおやか」は伝わってきません。
 「ささやか」も「スモール」や「タイニー」となりますが、「ささやかな御礼ですが」という謙虚な気持は伝わりません。
 以前、アメリカ人に、そのような気持を表現する英語を聞いたところ「ア・トークン・オブ・マイ・グラティテュゥード(私の感謝のしるし)と言えといわれましたが、やはりピンときません。

 つまり千数百年間、積上げてきた日本人の心を他の言葉に置き換えることは難しいということです。
 そのような背景があるにもかかわらず、文部省は子供のときから英語教育を推進することに熱心です。
 それは国際ビジネスや国際協同研究には役立ちますが、日本人としての精神を失うことにもなりかねません。
 最近では、アップルが開発して「アイフォン」や「アイパッド」に搭載されている音声自動翻訳ソフトウェア「Siri」などが出現しており、英語が母語ではない人の英語程度であれば十分に代行してくれる時代です。
 消えていく言葉が消滅させるものは伝達手段ではなく、それを使用していた人々が長年に亘り蓄積してきた精神文化だということに思いを致し、便利さだけの語学教育を見直すべきだと思います。

 日本がハイビジョンの開発・普及に熱中していた時期に、アメリカの学者が美しい画面で下らない番組を見るのと、多少は粗い画面で内容のある番組を見るのとどちらを選びますかという意見を言っていました。
 それを利用させていただけば、流暢な言葉で話される空疎な内容と、たどたどしい言葉で話されるが重みのある内容とどちらが必要かを考えて下さい、ということだと思います。





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