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論文

 昨年12月にも発言の一部を紹介させていただいたことがありますが、昨年2月まで南米のウルグアイの大統領であったホセ・ムヒカ上院議員に、最近、朝日新聞の記者がインタビューしています。
 そのなかに「政治家は大半の国民と同じ暮らしを送るべきだが、お前は王子様かと思うような政治家がたくさんいる」という言葉があります。
 これは日本の政治家についての発言ではありませんが、最近は、この言葉が当てはまるような行動や暴言が問題になる政治家が日本にも少なくありません。
 また経済活動についても「規制を撤廃した新自由主義経済が冨を集中させ、そのためにグローバル経済が進み、世界に残酷な競争が広がっている」と発言されています。
 これも最近の日本の大企業で経営陣の不正などが頻発している状況や、外国企業に身売りをせざるを得ない企業が登場している状況の背景を説明しています。
 共通するのは自分や自社のことを中心に考え、社会とか国家という広範な視点が十分ではない行動ということだと思います。
 そこで、現在の一部の政治家や企業家とは違う人生を送られた歴史上の人物の生涯を御紹介し、4月から新たに学生として勉強を始めたり、社会人としての生活を始められる方々への参考になればと思います。

 今日は明治から大正にかけて活躍した廣井勇(ひろい・いさみ)という土木技術者を紹介したいと思います。
 北海道の札幌から列車で30分ほどの積丹半島の付根に小樽という人口12万人ほどの都市があります。
 現在は運河や石造の倉庫のある観光地として有名ですが、 明治時代には北海道最大の港湾都市で、石炭や木材の積出港として繁栄しました。
 明治13(1880)年には、日本で3番目、北海道で最初の鉄道(幌内鉄道)が札幌から小樽(手宮)まで敷かれ、89年には特別輸出港に指定され、北海道の商業活動の中心でした。
 その証拠に、小樽には銀行が集中し、その一画は「北のウォール街」と呼ばれるほどで、明治26(1893)年には日本銀行の小樽出張所が設置され、明治39(1906)年には支店に昇格します。
 その影響で、それまで北海道支店であった函館は出張所に格下げ、札幌出張所は廃止になるほど、小樽は繁栄していたのです。
 その建物は東京大学建築学科の第1回卒業生である、東京駅を設計した辰野金吾が設計するほどで、費用も東京の本店、大阪支店に次ぐ3番目の建設費が注ぎ込まれ、石造2階建ての壮麗な建物でした。

 問題は小樽港が日本海に北面しているために、冬になると強い北風が吹いて港内でも波浪が高くなるということでした。
 そこで、これを防ぐため、沖合に全長1300mの防波堤を建造することになり、1893年、工事責任者に当時35歳の札幌農学校教授で小樽築港事務所長でもあった廣井勇が指名されます。
 当時の平均年齢からすれば若いという訳ではありませんが、当初は政府が着工を許可しなかったほどの難工事なので、大変な仕事を引受けたことになります。

 廣井勇は植物学者の牧野富太郎と同じ土佐藩の佐川村の生まれで、16歳で札幌農学校の2期生として入学します。
 同期には国際連盟事務次長になる新渡戸稲造、キリスト教思想家の内村鑑三、札幌農学校教授となり、文化勲章も受賞する宮部金吾などがいました。
 その後、自費でアメリカに渡って橋梁設計などの実務を勉強し、さらにドイツのシュツットガルト大学に留学して土木工学を修め、帰国後、札幌農学校教授になっていました。
 数々のエピソードがありますが、まず国家への責任や使命を強く感じていた人だということです。
 工事は岸から海中に大きなコンクリートのブロックを設置していく方法で建設していくのですが、そのためにイギリスから高価な蒸気機関で動くクレーンを国費で購入して使用していました。
 工事の途中で、暴風が襲来した時には、もし、強風で高価なクレーンが海中に没するようなことがあれば、一命をもって責任を取る覚悟であったと記録されています。
 2011年3月の津波で、1200億円の工費と30年の年月をかけて構築された釜石湾口防波堤が崩壊しましたが、だれかが責任を感じたという話題が伝わって来ない現代とは大きな違いがあります。

 長期の見通しを持っていたことも素晴らしいことでした。
 当時、セメントは高価であったので、工費を節約するために火山灰を使用することを考えますが、十分な耐用性があるかが疑問でした。
 そこで破壊試験をするために6万個の試験片を制作し、毎年、破壊試験を繰返して材質の劣化を調べる用意をしていたのです。
 防波堤の竣工から100年以上が経過していますが、その試験片は現在でも4000個ほどが残っているほど先の先まで考えていたのです。

 また現場の作業員への思いやりの篤い人でした。
 明治41(1908)年に防波堤が完成して竣工式が開かれますが、現場で作業した人々は呼ばれませんでした。
 そこで妻に500円、現在では数百万円に相当する金を工面させ、作業員全員を一晩、宴会で労ったというエピソードもあります。

 このような業績のため、出身校ではない東京大学土木工学科の教授に招聘されますが、業績に関係なく停年まで勤務することには忸怩たる想いがあり、妻に今後年金だけでも生活できるかと尋ね、何とかなるとの返事を得て、停年3年前に辞職して余生を送った方でした。
 現在とは時代の状況が違いますので、簡単に比較は出来ませんが、何度も天下りをして地位に連綿とする役人が多い現状と比較すると、清々しい気持になる偉人です。





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