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論文

 3月初旬にグーグルの研究者が開発した囲碁のソフトウェアが韓国の9段のプロ棋士を破り話題になりましたし、昨年、安倍首相が2020年の東京オリンピックでは、自動運転車を都内で走らせると発表するなど、人工知能が世界全体で流行しています。
 グーグル、アップル、フェイスブックなどアメリカの情報企業は次々と研究組織を創っていますし、トヨタやNTTなど日本企業も研究体制を整えています。
 しかし、日本企業の研究体制も、政府の研究支援も遅れています。
 例えば、アメリカ連邦政府は人工知能の研究に年間300億円程度、EUも200億円規模の研究費を投入していますが、日本は80億円程度です。
 そこで、この4月に理化学研究所に人工知能を研究するAIPセンターを設立し、年間100億円近くを投入するということになりました。
 先週末、そのAIPセンター長に41歳の杉山将(まさし)東京大学教授を任命するという発表がありました。
 それについての新聞記事には「異例の若手抜擢である」と書かれていましたが、これは日本的な間違った認識です。
 センター長は行政手腕も必要ですから、ある程度の年配の人間が必要で、当初は80歳近い大物の名前も挙っていましたが、最先端の研究分野で41歳は十分に高齢なのです。

 それを実証するために、画期的な発明や発見は何歳の人間によってなされたかを調べてみました。
 機械技術や電子技術などの発明は30代から40代が多く、1903年にライト兄弟が飛行機の原型を発明したとき、兄のウィルバーは36歳、弟のオーヴィルは32歳。
 1908年にヘンリー・フォードがT型フォードという画期的自動車を発売したのは45歳。
 1959年にテキサス・インスツルメントの技師ジャック・キルビーが集積回路の特許を取得したときは36歳です。

 ところが最近の情報技術や情報サービスになると、20代が中心です。
 ビル・ゲーツがPC用の「MS−DOS」というOSを開発したのは26歳、 アップルが「アップル1」というパソコンを発売したとき、スティーブ・ジョブズは21歳、スティーブ・ウォズニアックは26歳。
 マーク・ザッカーバーグが最初に「フェイスブック」を提供したのは20歳、検索システムのグーグルが創業したとき、創業者のラリー・ペイジもセルゲイ・ブリンも25歳でした。
 例外もありますが、情報通信分野の新しい技術やサービスの多くは20代の若者から出ているのです。

 しかし、技術開発とAIPセンターのような組織の管理は別物ではないかという異論があるかもしれません。
 そこで、そうではないという実例を紹介したいと思います。
 発端は1957年10月4日に遡ります。
 ソビエトが世界最初の人工衛星スプートニク1号打上げに成功した日です。
 これはアメリカの威信を傷付けただけではなく、スプートニク・ショックという言葉が象徴するように、ソビエトの核弾頭がアメリカ上空で炸裂するかも知れないというパニックをもたらしました。
 対抗するためには、アメリカの科学技術、とりわけ情報技術を急速に発展させる必要があるということで、アイゼンハワー大統領の命令で1957年に国防総省に「高等研究計画局(ARPA)」が設立され、1962年、その中に情報処理技術を研究するIPTOという部門が設けられました。
 初代部長は47歳のマサチュセッツ工科大学のジョセフ・リックライダー教授が任命されますが、2年後の1964年、マサチュセッツ工科大学に戻ることになり、その後任に指名したのが当時26歳で大学院生のアイバン・サザーランドでした。
 今回の杉山教授に匹敵する仕事と言って良いと思いますが、無名の大学院生に国家の情報技術の予算配分を任せるということです。
 流石の実力主義のアメリカでも大丈夫かという意見も出ましたが、高等研究計画局の局長が「サザーランドが噂のように優秀であるならば、若いことは問題ではない」「旧来の主流派が不可能と考えていたり、思いつかないことを実現してくれるのであれば適任である」と英断し、26歳の部長が誕生しました。

 前任のリックライダーがサザーランドを推薦した理由があります。
 当時の重要な技術開発目標は、現在のように端末装置から命令を入力すると、すぐ結果を表示してくれる対話型グラフィック・コンピュータでした。
 そのため公式研究会が開かれて、最高の学者たちが何日も議論していました。
 サザーランドは傍聴者として参加していましたが、会議の終わり頃に、おずおずと自分の研究を発表しても良いかと尋ねました。
 そこで翌日、発表の機会を与えたところ、その内容は、それまで何日か一流の学者が、これから開発しなければいけないと議論していたことを、すでに一人でほとんど実現していたという驚くべきものでした。
 このような経緯で26歳の若者が国家予算を配分する立場になったのですが、彼はアメリカ各地の優秀な研究者に予算を配分し、その後、アメリカの人工知能、仮想現実、コンピュータ・グラフィックスなどを牽引していく学者の多くを育て、ソビエトを逆転していくという結果になりました。
 しかし、2年で、このような退屈な仕事はもう十分だと、あっさり辞任して大学に移り、画期的発明をするとともに、優秀な人材を育成します。
 後年、どうして次々と画期的な開発ができたかと質問され、「それらが難しいことだと知らなかったからだ」と言う痛快な返事をしています。
 最初に指摘したように、41歳の優秀な学者がセンター長になることを「異例の若手抜擢」という日本のマスメディアの見識では世界との競争には勝てないということです。





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