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論文

 今日は横浜港と長崎港の開港記念日です。
 以下は新暦の日付で紹介させていただきますが、嘉永7(1854)年3月31日に日本とアメリカの間で「日米和親条約」が締結され、伊豆半島の下田と北海道の箱館を開港することが決まり、さらに「日米修好通商条約」が安政5(1858)年7月29日に締結され、神奈川(現在の横浜)、長崎、新潟、兵庫(現在の神戸)を開港することになりました。
 横浜と長崎は翌年7月1日に開港したのですが、当時の暦では安政6(1859)年6月2日になるので、6月2日を開港記念日にしているわけです。

 開港した都市には外国人が西欧の文物を持込むため、長崎や横浜には様々な日本最初が登場します。
 長崎は江戸時代から特定の国に限定していましたが、日本唯一の外国の船が入港できる港で、港の一角に出島を作って外国人を滞在させていましたから、その内部には日本最初が数多くありました。
 それらを別にして、1859年の開港以後に登場した日本最初も少なくありません。
 スコットランド出身のトマス・グラバーは開港と同時に長崎に到着し、文久3(1863)年に住宅を建てますが、これが日本最初の洋風住宅で、現在では重要文化財になっています。
 日本で最初の鉄道は明治5(1872)年に新橋と横浜の区間に開通したということになっていますが、それより7年前の慶応元(1865)年にグラバーが蒸気機関車も持込んで長崎の海岸で試運転しており、長崎の人は、これが日本最初だと言っています。
 さらに西洋料理店の最初は明治2(1869)年に横浜に開かれた「開陽亭」といわれますが、文久3(1863)年に長崎に「良林亭」が開かれているというのが長崎の主張です。
 それ以外にも日本最初のテニスコート、缶詰の製造(1879)もありますし、坂本龍馬が元治2(1865)年に設立した「亀山社中」は2年後に「海援隊」と名前を改めますが、日本最初の商社です。

 対抗する横浜には、日本最初の写真館(1860)、西洋理髪店(1864)、「あいすくりん」と呼ばれたアイスクリーム店「氷水屋」(1869)、日刊新聞である「横浜毎日新聞」(1871)のような日常生活に関係する商売から、日本最初の街路樹(1867)、鉄製の橋(1869)、洋式公園の山下公園(1870)、公衆便所(1872)、ガス灯(1872)、上水道(1887)などの社会基盤までありますし、さらには東京から最初の鉄道が到達(1872)したのも、最初の電話線が敷かれた(1890)のも横浜でした。

 このような西欧の文物は日本人が独自に開発できた訳ではなく、外国人が持込んだ技術や文化ですが、そのために政府も、地方自治体も、民間企業も、場合によっては金持の個人も、競って外国人を雇用しました。
 これが御雇外国人と呼ばれる人々です。
 例えば、木製であった横浜の吉田橋を鉄製に変更したのは、イギリスの土木技師のリチャード・ブラントンです。
 ブラントンは明治元(1868)年に来日した御雇外国人の第1号ですが、北は北海道の納沙布岬灯台から南は鹿児島の佐多岬灯台まで27以上の灯台を設計し、「日本の灯台の父」と称えられている人です。
 ところが、それだけではなく、明治2(1869)年に東京築地と横浜の区間に敷設した電信、歩道と車道を分離した最初の道路とされる横浜の日本大通りの整備、横浜公園の設計、大阪港や新潟港の設計など、様々な仕を手懸けています。
 当時は、現在ほど技術が分化していなかったとしても大変な能力です。

 これはブラントンに限ったことではなく、明治10(1877)年に日本最初の煉瓦造の不燃街区の銀座煉瓦街について詳細な提言をしているフランスのルイ・フロランは横須賀製鉄所や富岡製糸所を施工しています。
 東京大学工学部の前身である工部大学校を設立したスコットランド出身のヘンリー・ダイヤーはグラスゴー大学で化学、地質学、鉱物学、土木工学、機械工学で優秀な成績を修め、25歳で来日し、一緒に来日した合計9名の陣容で、工部大学校の9学科の科目すべてを教えていたという能力でした。
 現在の学問の水準からすれば、それほど高度ではなかったといえ、14年間で、アドレナリンを発見した高峰譲吉、東京駅を設計した辰野金吾、琵琶湖疎水を設計した田邊朔郎など第一級の人材を含む211名の卒業生を送り出していますから、大変な能力を持った人々でした。

 このような御雇外国人は法律、軍事、外交、産業、医学、教育、芸術など多方面に渡り、正確な人数は分かりませんが、19世紀の間だけで8400人以上と推計され、国籍もイギリスが46%、アメリカが16%、フランスが15%ですが、すべてでは25カ国にも及んでいます。
 当然、能力はピンからキリまであったと思いますが、大変な高給で雇っていました。
 基準として明治初期の日本の総理大臣が月俸800円、大蔵大臣が500円程度、一方、小学校教員や警官の初任給は10円前後でした。
 それでは御雇外国人はどの程度かというと、最高は造幣寮支配人のウィリアム・キンダーが月給1045円で総理大臣以上、軍事顧問であったアルベール・デュ・ブスケが600円、長崎英語伝習所で英語を教えていたグイド・フルベッキも600円で普通の大臣以上、平均では180円とされています。
 明治初期の1円は現在の価値で5000円から2万円とされていますので、計算しやすく1万円とすると、月給600円は600万円ですから、年俸では7000万円以上になりますし、平均の180円でも年俸2000万円になりますから、桁違いの給料を支払っていたことになります。
 当時の政府は財政逼迫で大変でしたが、このような大胆な政策で知識を獲得した結果、現在の日本があるとすれば妥当な投資だったということかもしれません。





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