TOPページへ論文ページへ
論文

 開催が2ヶ月後に迫ったリオデジャネイロで開催される第31回夏季五輪大会は、日本では今週も男子の体操の代表選手の選考が決定するなど、関係者や一部の熱心なファンの間では話題になっているようです。
 しかし、ブラジルの政情不安もあり、会場の建設が開始までに間に合うのか、ジカ熱は大丈夫か、現地の治安は大丈夫かなどの心配が山積みで、リオデジャネイロの市民にも開催反対の動きがありますし、日本でもかつてのような盛り上がりはありません。

 さらに2020年に東京で開催される第32回の東京大会については、エンブレムの問題、新国立競技場の問題、最近では裏金の問題などとともに、開催都市の知事の金銭問題などトラブル続出です。
 開催期間中も、かつての平和な時代とは違い、テロの発生や、サイバー攻撃の発生など、不安な状態で、関係者はともかく、一般国民には1964年の東京大会のような高揚感はまったくない状態で、開催は迷惑だという意見も出ているほどです。

 さらに2024年に開催される夏季大会については、今年2月に第一次申請をした都市が発表されましたが、ローマ、パリ、ブタペスト、ロサンゼルスでした。
 しかし、その陰で、昨年7月にはアメリカの候補都市であったボストンの市長は財政負担が大き過ぎるという理由で立候補を辞退しています。
 この巨額の財政負担は冬季大会でも深刻な問題で、2018年に韓国の平昌(ピョンチャン)で開催予定の大会は、開催地の雪不足も心配されていますが、中心の会場となる施設の経営母体が多額の負債を抱えているなどの問題で、2014年には国際オリンピック委員会(IOC)が周辺国の都市などとの分散開催を提案したり、昨年には国際スキー連盟が問題が山積みで深刻な疑問をもっていると意見を表明したりしています。
 さらに2022年の冬季大会はカザフスタンのアルマトイと北京が競って北京に決定しましたが、その陰でストックホルム、クラクフ(ポーランド)、リビヴ(ウクライナ)、オスロの4都市が辞退をしています。
 ストックホルムやオスロは財政の問題とともに、多数の市民が反対し、辞退をすることに影響しています。

 このような背景には2つの問題があります。
 第一は費用負担が急増していることです。
 ボストンの開催に反対した市民団体が発表した数字が読売新聞に紹介されていますが、夏季大会の開催費用は2000年のシドニー大会は4200億円程度でしたが、2004年のアテネ大会は1兆8000億円、2008年の北京大会は4兆8000億円、2012年のロンドン大会はやや下がりましたが1兆5000億円に増えています。
 冬季大会の開催費用は2002年のソルトレークシティ大会で2200億円でしたが、2006年のトリノ大会が5200億円、2010年のバンクーバー大会が1兆円、2014年のソチ大会は何と5兆6000億円になっています。12年間で25倍の増加です。
 立候補を断念したボストン市長は「想定される2兆円程度の金があれば、マサチュセッツ州の州民が支払う所得税と消費税を1年間免除できる」と発言しているほどです。

 第二は日本オリンピック委員会が支払った裏金が象徴しているように、大会の開催が巨大な利権になっていることです。
 オスロが2022年の冬季大会を断念した理由は、国際オリンピック委員会が要求してきた内容に不満だったことと言われています。
 要求内容の一部ですが、IOC委員には運転手付きの車を用意しろ、参加者を増やすために学校を休みにしろ、ホテルの部屋にはフルーツやケーキを用意しろ、などはまだしも、IOC委員がホテルに到着したら笑顔で出迎えろなど、飛んでもない要求が目白押しだったそうです。

 このような状態を、どのように理解するかですが、私は制度疲労に陥っていることが背後の重大な原因だと思います。
 近代オリンピックは1896年から始まりましたので、すでに120年が経過し、提唱したクーベルタン男爵の理念はとっくに霞んで、金儲けを初めとする利権の巣窟になっているということです。

 これはオリンピック大会だけではなく、1930年にウルグアイで第1回が開催されてから88年が経過したサッカーのFIFAワールドカップにも利権による異常事態が発生しています。
 東京五輪大会の票集めのために日本が支払った裏金が2億2000万円と話題になっていますが、昨年、スイスのスポーツのマーケティング会社の倒産でサッカーのワールドカップ開催に関係する裏金の詳細が判明し、スイスの司法当局が起訴していますが、桁違いです。
 数日前にも、国際サッカー連盟のプラッター前会長、バルク前事務局長、カットナー前事務局長代行の3人が昨年まで5年間に受取っていた報酬の合計が86億円にもなるということが明らかになっています。
 平均しても1人年間6億円の報酬です。

 どのような高邁な理念で始まった行事も100年近くの年月が経過すると、当初の理念は霞んで利権が拡大し、問題が噴出するということです。
 そして突然ですが、放送についても同様に考える必要があると思います。
 公共放送としてのラジオ放送は1920年にアメリカで始まっていますが、現在で97年目です。
 テレビジョン放送の定期放送は1932年にイギリスのBBCが始めてから現在で85年目になり、いずれも100年に近付いています。
 その電波の割当は、余程の事情でもない限り、既得権益として維持されています。
 あくまで個人的感想ですが、現在の放送内容が公共財産である電波を占有しているということに見合うものであるかを真摯に検討してみる必要があるのではないかと思います。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.