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論文

 4月に明治時代に小樽築港の難工事を指揮して完成させた技術者としてだけではなく、人間としても美しい人生を送った廣井勇(いさみ)について、御紹介しましたが、今日はもう1人の明治時代の素晴らしい技術者を紹介したいと思います。
 琵琶湖から京都市内に水を引く全長約10キロメートルの「琵琶湖疎水」を設計し、建設した田邊朔郎という人です。

 京都は市内を鴨川、高瀬川、堀川、桂川などが流れており、水の豊かな地域の印象がありますが、かつて豊臣秀吉も琵琶湖の水を引こうと考えたことがあるほど、水不足の地域でした。
 もちろん当時の技術では不可能でしたが、300年後に、それを実現しようと強力に推進した人物が登場します。
 明治14(1881)年に第3代京都府知事に就任した北垣国道(くにみち)です。
 明治2(1869)年に首都が京都から東京に移ったため、江戸時代には58万人であった京都の人口が23万人と半分以下になり、衰退していました。
 そこで北垣知事は琵琶湖の水を京都に引き、京都市民に水を供給するとともに、水流を動力とする紡績業などの産業を誘致して発展しようと構想します。
 ところが滋賀県は、どうして京都に水を渡す必要があるのだと反対し、大阪府は、ただでさえ浸水被害が多いのに、京都から淀川に水が流れ込めば深刻な事態になると反対し、京都市民も工事費の一部を税金で負担させられると反対する四面楚歌になります。
 さらに西洋文明の導入に積極的であった福沢諭吉でさえ「そのような西洋かぶれのものを作ってどうするのか」と批判したほどでした。

 しかし北垣知事は不退転の決意で、東京に出向いて、品川弥二郎、井上馨、松方正義、山県有朋、榎本武揚など明治政府の要人を説得し、ついでに旧知の東京大学工学部の前身である工部大学校の校長大鳥圭介を訪問します。
 目的は工事の責任者となる技術者を紹介してもらうことでした。
 当時、このような前例のない工事は御雇外国人に頼むのが普通でしたが、北垣知事は日本人の手で実現したいと、最初は内務省の土木部長に依頼したいと申込みますが、内務省は一地方の仕事に政府の重要人物を貸すことはできないと断ってしまいます。
 そこで大鳥校長に頼ったのですが、校長が紹介してくれたのが土木工学を専攻している学生の田邊朔郎でした。
 その田邊が執筆中の卒業論文が「琵琶湖疎水工事計画」という偶然でした。

 そこで翌年の明治16(1883)年に田邊が卒業すると同時に京都府の技師として採用し、工事責任者に任命します。
 この工事は当時の政府の土木事業総予算が100万円という時代に125万円と見積もられており、現在価格では数百億円に相当しますから、大学生が自分で設計した巨大ダムを、卒業した途端に自分で工事するという大胆な決断でした。
 自慢ではありませんが、私が大学の建築学科を卒業して2年目に両親の家を設計しましたが、完成してから10年程は雨漏りが止まなかったという程度ですから、当時の大学卒の実力がお分かりいただけると思います。

 しかも彼は責任者になった時点で満21歳という若さでした。
 田邊は幕臣であった田邊孫次郎の長男として、文久元(1861)年に江戸で生まれますが、15歳で工部大学校に入学します。
 当時の工部大学校は卒業まで6年間で、最後の2年間は具体的な設計をするという教育制度でした。
 そこで最初は「東京湾築港計画」を検討し、その実現を東京府知事に提案しますが、採用されなかったので、「琵琶湖疎水」を計画することにします。
 そのために京都に実地調査に向いますが、当時は東京と横浜の区間、神戸と滋賀県の膳所(ぜぜ)の区間しか鉄道が開通していませんでしたので、横浜から膳所までは徒歩での旅行でした。

 その調査をもとに卒業設計を英語で執筆するのですが、実地調査のときに右手に怪我をし、貧乏で医者に行けないので腕を吊ったままにして、左手で精密な製図や英語の論文を執筆したという根性のある若者でした。
 そして21歳で工事責任者となり、23歳になった明治18(1885)年から実際の工事が始まり、6年間かけて、28歳になった明治23(1890)年に大工事が完成します。
 明治初期の平均寿命は45歳程度ですから、当時の21歳は現在の38歳に相当しますが、それでも世間では、大学を卒業したばかりの若造に何が出来るかという非難もありました。
 しかし、見事に実務経験のない土木事業の設計をし、工事監督までして完成させるという大変な能力でした。
 これが如何に偉業であったかは、竣工から4年後に、当時の世界の技術最先進国のイギリスの土木学会から栄誉あるテルフォードメダルを授与されたことでも分かります。

 田邊は京都を水に不自由しない都市にしただけではなく、当時、世界でも珍しい水力発電所を建設し、疎水を流れる水流を利用して発電したことです。
 これは当時の日本全体の動力の半分に相当する電力を生産し、それによって京都に日本最初の路面電車が走ることにもなりました。
 この工事が完成後、田邊は東京大学教授、北海道庁鉄道部長、京都大学教授などを歴任しますが、そのような栄誉だけではなく、人間として素晴らしい業績を残しています。
 工事には延べ500万人が動員されますが、17人が殉職しています。
 それらの人々の慰霊碑が疎水の付近の公園に建てられていますが、これは田邊が私費で建立し、後に京都市に寄付したものです。
 私も見に行きましたが、高さ2メートルはある立派な慰霊碑です。

 小樽築港の工事を指揮した廣井勇が竣工式に招かれなかった現場で工事をした人々を自費で宴会を開いて労ったと同じ精神で、明治時代の技術者の心根が想像されます。





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