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論文

 今日は明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇外国人を紹介したいと思います。
 明治時代に日本は短期間で先進欧米諸国に追いついていきますが、それは明治維新を実現した中心人物の多くが幕末に密出国して欧米諸国との格差を痛感したことに出発点があります。
 長州藩からは初代内閣総理大臣になる伊藤博文、内務大臣を勤めた井上馨、初代法制局長官に就任した山尾庸三など5名、薩摩藩からは初代文部大臣になる森有礼(ありのり)、大阪商法会議所や大阪証券取引所の設立に尽力した五代友厚(ともあつ)など19名が密出国しています。
 それ以外に幕府も初代逓信大臣になる榎本武揚(たけあき)以外に、明治政府で活躍する西周(あまね)、赤松則良などを留学させています。

 これらの人々は欧米諸国に追いつくため、様々な分野で外国人を政府の顧問などに雇いますが、その御雇外国人のなかで最も多い分野が技術の指導者でした。
 明治7年の資料では426名の政府の御雇外国人のうち、228名、54%が工部省の雇った技術者でした。
 そのような状況の中で、伊藤博文と山尾庸三が明治3年に「工部大学校建設の建議」により技術者を育成するための学校を設立する提言をし、伊藤や山尾が密航するときに手配をしてくれたジャーディン・マセソン商会に校長になる人間の紹介を依頼します。

 そこで選ばれたのがスコットランドのグラスゴー大学を卒業したばかりで24歳のダイアーだったのです。
 イギリスで大学というと、オックスフォード大学やケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学で、文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットやアインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。

 ダイアーは世界最高の大学で機械工学と土木工学を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で明治6(1873)年、8人の教授陣とともに日本に到着します。
 当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。
 その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視(ともみ)の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円でした。
 なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

 明治8年から工部大学校の授業が開始されますが、当然、すべて英語でした。
 そのようなハンディキャップがあるにも関わらず、例えば、6月にご紹介した第5期生の田邊朔郎は6年間の勉強の成果として設計した琵琶湖疎水という大土木事業を自身で工事責任者として完成させたわけですから、大変な能力の生徒が集まってきたことになります。
 それ以外にも東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊、アドレナリンを発見した高峰譲吉、本家のスコットランドで現在は世界遺産に登録されているフォースブリッジという鉄骨の鉄道橋の工事監督をした渡辺嘉一(かいち)など211名が卒業していきます。

 そのような才能ある若者が死に物狂いで勉強することに感動したダイアーは最初の5年契約を延長して、さらに5年の契約をして足掛け10年、日本に滞在し、スコットランドに帰国します。
 その後、スコットランドで日本について20年間研究し、1904年に『大日本』という大部の本を出版します。
 これは当時の日本についての百科事典といってもいいような内容で、歴史、文化、教育、軍事、産業、貿易、財政について説明していますが、出版が日露戦争の勃発から半年後であったため、急遽、追加して日露戦争の結末を予測しています。当時、グラスゴー大学に留学していたロシアの将校たちの勉強態度と比較して、日本は絶対に勝つと書いています。

 しかし、この本でダイアーがもっとも書きたかったことは、文中に「欧米の科学、工業、商業を導入しようと決意した動機を可能なかぎり追求し確認する必要がある」と記しているように、日本人が死に物狂いで勉強する根源を知ることでした。
 ダイアーは回答を明治33(1900)年に新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』に発見し「明治維新という一大事業を推進する動機となったのは、物質資源の開発や国富の増進ではない。ましてや西洋の習慣の闇雲な模倣の追求でもない。安政の不平等条約を5カ国と締結してしまい、世界から劣等国として見下されることは耐え難いという名誉を重んじる気持こそが最大の動機である」と引用しています。
 現在、日本は激変する国際情勢のなかで苦労していますが、この言葉を思い起こすべきだと思います。

 日本に8ヶ月しか滞在しなかった札幌農学校の実質的な初代校長ウィリアム・クラークは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉で、多くの人に知られていますが、10年近く滞在して多数の優秀な人材を育てたダイアーは意外に知られていません。
 それはダイアーが契約を1年残して辞任し帰国したことと関係があります。
 『大日本』には「東洋のイギリス」という副題が付けられているように、ダイアーは日本がイギリスのような議院内閣制の憲法による民主国家になることを期待していましたが、明治14(1881)年の政変で伊藤博文がドイツを見習った立憲君主制の憲法を採用したことに落胆したことが影響していると思われます。
 しかし、開国したばかりの日本で10年近く努力して工業大国の基礎を創ってくれたダイアーに改めて感謝すべきだと思います。





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