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論文

 先週の8月25日に中央防災会議作業部会が南海トラフ地震の一環で発生する東海地震を直前に予知することはできないと発表しました。
 これまで、学者の間でも地震の予知可能性については賛否両論がありましたが、少なくとも東海地震については確度の高い予測は困難という結論が出されたことになります。
 さらに明日9月1日は94年前の大正12(1923)年に関東大震災が発生した日で、1960年から「防災の日」に指定されています。

 そこで今日は関東大震災を予言して大変な騒動に巻き込まれた学者を紹介したいと思います。
 明治3(1870)年に鹿児島市に生まれた今村明恒(あきつね)という学者で、現在の東京大学教養学部の前身である第一高等中学校を卒業して、帝国大学理科大学に進学し、大学院では開設されて間もない地震学講座に進学し、そのまま無給の助教授に就任しました。
 日本は世界有数の地震多発地帯にある関係で、地震の研究では世界の先端を行く国ですが、地震を本格的に研究するようになったのは明治時代になってからで、
まだ出来たばかりの講座には福井県生まれの大森房吉教授が就任していました。
 この大森教授は数多くの業績を残した方で、明治24(1891)年に発生したマグニチュード8・0で死者行方不明者が7270人以上にもなった濃尾地震の余震を研究して、時間とともに余震の回数が減っていくことを示す大森公式を発表、明治31(1898)年には世界最初の連続して地震を記録することのできる大森式地震計を開発、翌年には初期微動の継続時間から震源までの距離を計算することのできる大森公式を発表するなどの業績があり、「日本地震学の父」と呼ばれている学者です。

 その大森教授の下で助教授になったのが今村明恒で、明治32(1899)年には津波は海底の地殻変動により発生するという、現在では常識のようになっている学説を最初に唱えるなどの業績がありました。
 大森教授が会長をする地震予防調査会が調査した過去に国内で発生した地震の記録を分析した今村博士は関東地方では一定の周期で大地震が発生していることを発見します。
 慶安2(1649)年にM7・1の「慶安武蔵地震」、元禄13(1703)年には死者20万人ともいわれるM8・2の「元禄関東地震」、寛延4(1751)年にはM7・4の「高田地震」、寛政5(1793)年にはM8・4の「寛政地震」、そして安政2(1855)年には幕末の江戸を直撃して死者約1万人といわれるM7・1の「安政江戸地震」というように、ほぼ50年間隔で関東地方に大地震が発生していることを発見したのです。
 そうすると安政江戸地震から半世紀が経過した20世紀初頭には巨大地震が発生する可能性があると考え、今村博士は一般読者を対象にした雑誌『太陽』の明治38(1905)年9月号に「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」という文章を発表しました。
 現在ではお笑い番組に登場する大学教授も珍しくありませんが、かつては帝国大学教授が一般雑誌に文章を書くことさえ疑問視される時代でしたから、そもそも問題でした。
 しかし、この文章はセンセーショナルな内容ではなく、「過去の履歴から今後も東京には地震が発生する」「江戸時代に比べて大規模な火災が発生しやすく、東京全市が消失すれば死者は10万、20万という規模になる」「そのために災害予防は1日の猶予も許されない」という防災対策の必要を強調した内容でした。
 発表直後は反響もなかったのですが、翌年1月に大衆紙「東京二六新聞」が「今村博士が大地震襲来説、東京市大罹災の予言」という見出しで扇動的な記事として紹介したため、大騒動になってしまいました。

 現在では東京大学教授の発言といってもほとんど影響がないことは私が証明していますが、当時の帝国大学の権威は桁違いでしたから、大騒動になったのです。
 そこで上司の大森教授の命令で、今村博士は3日後の新聞に釈明の文章を掲載したのですが、1ヶ月後に関東地方でM6・3とM6・4の地震が連続して発生したため、騒動が再発してしまいました。
 そこで大森教授は今村博士の記事を痛烈に批判し、今後数百年間、関東地方に巨大地震は発生しないし、死者が10万人になる根拠はないと火消しに努めざるを得なくなります。
 これは弟子を批判するというよりは、帝国大学教授の立場でやむを得ないことでした。

 それから18年間、今村博士は不遇の年月を過ごしますが、1923年9月1日にM7・9の関東地震が発生し、死者行方不明者10万人以上という大災害になります。
 このときオーストラリアに出張中であった大森教授は急遽、帰国しますが、船中で脳腫瘍が悪化して、そのまま入院し、その病床で自分の後継に今村博士を指名し、2ヶ月後に亡くなってしまうという悲劇が発生しました。
 それ以後も、大森教授が地震は発生しないと断言していた関西地方でも、2年後に北但馬地震、さらに2年後に北丹後地震などが発生しますが、今村博士は自分を非難せざるを得ない立場にあった恩師の心情を理解し、その業績を賞賛する文章を何度も書いています。

 今村博士は、現在、問題となっている南海トラフ地震の兆候を観測するため、和歌山県に自費で南海地震研究所(現在は東京大学和歌山地震観測所)を設立して観測をできる体制を整え、また、国民が危険を意識することが重要だという立場から、津波の襲来を海岸に居る村民に知らせるために、自分の家の稲わらに火を放って村民を救った濱口悟陵(悟陵)の逸話を国定教科書に掲載させるようにしたなどの逸話があります。
 さらに昭和8(1933)年の昭和三陸津波で住民の3分の1が死亡した岩手県の田老村の復興についても、防潮堤を作るよりも、高台に移転するべきことを助言するなど、地震の研究とともに災害の防止に尽力してきた学者です。
 昔は立派な学者が多かったと自己反省しながら終わらせていただきます。





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