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論文

 先週の3連休に東京の多摩地方に行く用があったので、ついでに多摩川沿いの羽村という場所に立ち寄ってきました。
 ここは江戸時代に江戸に上水を供給していた玉川上水の取水口がある場所として有名です。
 そこで今日は玉川上水を建設した玉川兄弟について紹介したいと思います。
 古代の四大文明はすべてナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河という大河の流域で発展してきましたし、ロンドンはテームズ川、パリはセーヌ川、ニューヨークはハドソン川というように、世界の大都市も大河の川岸で発展してきました。
 それは鉄道や道路が十分に発展していなかった時代には、水運が頼りだったということもありますし、飲料水や生活用水の供給にも川が重要だったということを反映しています。

 江戸は太田道灌が1457年に現在の皇居の位置に江戸城を建設したことが発端ですが、本格的に発展しはじめたのは、豊臣秀吉の家臣であった徳川家康が1590年に関東地方に移封(いほう)されたとき、江戸を拠点としたことです。
 それでも1603年に江戸幕府が創設された直後に、江戸に到来したスペイン人のドン・ロドリゴが残した記録では15万人程度の都市であったと記録されています。
 当時、大坂は人口36万人で世界4位、京都は30万人で世界5位でしたから、国内でも江戸は地方都市でした。
 ところが武家諸法度が定められ、全国の二百数十名の大名に参勤交代と、正妻と嫡男は江戸にとどまることを義務付けたため、大名は江戸府内に何軒かの屋敷を構え、家臣を在住させなければならなくなり、江戸の人口は一気に増えました。
 ある調査によると、その制度ができてから15年後の1650年には、世界1位の都市はイスタンブールの70万人でしたが、2位は50万人の江戸になり、45万人のパリや40万人のロンドン以上になっています。

 そこで登場した問題が水不足でした。
 徳川家康も小石川上水を建設していましたし、3代将軍徳川家光も神田上水を建設していましたが、増える人口には対応できませんでした。
 そこで4代将軍徳川家綱のときに、約50km西の方にある多摩川から水を引くことを構想し、川越藩主で老中であった松平信綱の家臣の安松金右衛門(きんえもん)が命ぜられて計画を作成します。
 そして実際の工事を請け負ったのが江戸城下の芝口に在住の町人の庄右衛門と清右衛門の兄弟でした。
 なぜ関係なさそうな町人が選ばれたのかについては、2人が多摩川の岸にある羽村の出身だったからと言われています。
 承応2(1653)年1月に両名に7500両で工事が命ぜられ、4月から着工しますが、昼夜兼行で工事をし、何と8ヶ月後の11月に、江戸の関所の一つである四谷大木戸まで42kmの掘削ができてしまったのです。
 現在のような工事機械もない時代に大変な速度ですが、実は大難問をいくつも乗り越えて完成していたのです。

 まず取水口の変更です。
 当初は多摩川の河口から約40km上流の日野を予定していたのですが、しばらく掘って水を通して見たところ、地盤の浸透性が高く、水が地下に吸い込まれてしまうので、そこから10km上流の福生に変更します。
 ところが、ここは強固な岩盤があって工事が進まないので、さらに5kmほど上流の羽村に変更して、ようやく取水口が完成します。
 次の難関は勾配です。
 羽村から四谷大木戸までは42kmほどですが、高低差は92mしかなく、平均で460分の1の勾配でした。
 十分な測量装置もない時代で、夜間には工夫に線香や提灯を持たせて高さを確認して何とか掘り進むという状態でした。
 さらなる難関は資金でした。
 幕府から7500両が渡される約束でしたが、実際は6000両しか渡されず、取水口から30kmの高井戸あたりまで掘り進んだところで、資金が切れてしまいました。
 そこで幕府に請求したところ、完成したら支払うから自分で工面しろというとんでもない返事が返ってきたのです。
 そこで自前の資金2000両と府内にあった家屋敷を売り払って1000両余を工面し、ようやく完成させたのです。
 さらに四谷大木戸からは石造の暗渠や木の樋を使って江戸城内と虎ノ門まで通水し、承応4(1655)年7月に全体が完成しました。

 この功績で両名は玉川という苗字を与えられ、帯刀も許され、代々、玉川用水の管理を任されることになったのです。
 ここまでは美しい話ですが、3代目になってつまずきました。
 管理費用は水道料金を徴収することで賄ってきたのですが、3代目庄右衛門と清右衛門の時代の元文4(1739)年に、十分な見回りもせず、水門や水路の補修も迅速にしないため、江戸で水不足が頻繁に発生するようになった結果、訴えられ、両名は免職になっただけではなく、弟の清右衛門は江戸払い、すなわち江戸に居住できなくなる処罰を受けることになってしまったのです。

 売り家と唐様(からよう)で書く三代目」の通りの状態になってしまったのですが、初代両名は明治になって従五位(じゅごい)を与えられ、戦後の1958年には羽村の取水口の横に銅像が建てられるほど讃えられています。
 現在、玉川上水の水は一部しか利用されていませんが、上水が小金井市を通過するあたりには江戸時代に両岸に植えられた小金井桜の名勝もありますので、水を確保することがいかに大変であったかを偲んでいただくと良いかと思います。





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