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論文

 新暦で江戸末期の安政3(1856)年2月1日に生まれた天才を紹介したいと思います。
 今年は明治維新150年ですが、それより12年前、現在の佐賀県多久(たく)市の庶民の家庭に志田林三郎(りんざぶろう)が誕生しました。
 父親が林三郎の誕生から5ヶ月後に死亡したため、母親が内職の着物の仕立て以外に饅頭屋を始めたのですが、それを手伝って店番をし、多数のお客さんが色々と買い物をしても、一瞬で代金を勘定してしまうので、地元では神童と言われていました。
 その噂を聞いた地元の殿様が面談し、算術の問題を尋ねると次々と正解するので、士族しか入学ができない学校で勉強できるように計らいます。
 そこでも成績優秀であったので、明治政府が明治4(1871)年に創設した工学寮(後の工部大学校)を受験し、電信科の第一期生として入学します。
 教師はすべて外国人で授業も英語でしたが、赴任してきた26歳のウィリアム・エアトンという素晴らしい教師に出会います。
 林三郎の才能を見抜いたエアトンは、電信科の生徒が2人だけだったこともあり、授業だけではなく、実験の助手や工事の現場なども手伝わせ、その成果もあり、英語で200ページにもなる卒業論文「電信の歴史・電気通信の進歩に関する研究」を仕上げ、明治12(1879)年11月に第一期生22名の中で2位を大きく引き離した首席で卒業し、日本の工学士第一号になります。

 この成績により、10名の仲間とともに国費留学生に選ばれ、翌年2月にスコットランドのグラスゴー大学に留学します。
 そこでの指導教官がウィリアム・トムソン(後にケルビン卿)という世界に名だたる学者でした。
 トムソンはグラスゴー大学卒業生の中では、『国富論』を書いた経済学者アダム・スミスとともに有名で、11歳でグラスゴー大学に入学、23歳でグラスゴー大学教授に就任という天才でした。
 大学教授は75歳まで務め、66歳で王立協会(ロイヤル・ソサエティ)会長、80歳でグラスゴー大学の総長に就任しています。
 ノーベル賞が制定される前の時代ですが、いわばノーベル賞級の学者が指導教官になってくれたのです。
 しかし、林三郎は見事に期待に応え、教授の指導で行った実験結果について英国協会で英語で講演し、自分で発明した電流計についての論文を「フィロソフィカル・マガジン」に発表しています。
 1年で卒業しますが、その時、全学の学生が発表した論文のなかで最優秀の論文1編だけに与えられる「クレランド金賞」も受賞しています。
 いかに優秀であったかは、大学で50年以上教育をしてきたトムソン教授が伝記の中に「自分の生徒のなかでもっとも優秀な生徒であった」と記しているほどでした。

 27歳で日本へ戻った林三郎は直ちに母校の工部大学校の教授になりますが、それと同時に創設されたばかりの逓信省の技師も兼務し、33歳で初代逓信公務局長に就任します。
 そして32歳の時には、日本の工学博士第1号にもなっています。
 これだけでも大変な業績ですが、さらに後世に貢献したのが「電気学会」を創設したことです。
 ヨーロッパでの経験で、学問だけではなく実業の進歩にとっても同じ分野の人々が交流する学会が必要だと実感していたため、初代逓信大臣であった榎本武揚(たけあき)を会長にして明治21(1888)年に「電気学会」を創設し、幹事に就任します。
 その設立総会で榎本会長の挨拶の次に、林三郎が講演をしますが、その内容が驚嘆すべきものでした。

 当時は多くの人々が知らなかった電気通信の歴史を、古代ギリシャ時代の静電気の発見から、当時の最新の技術まで説明し、後半で電気通信がどのような社会をもたらすかについて12の予言をしています。
 その内容は『電気学会雑誌第1号』に掲載されていますが、主要な予測を現在の表現で紹介したいと思います。
 まず「1本の電線により1分に数百語の音声を数通同時に送受可能になる」と説明します。
 電話はすでに13年前にアメリカのベルが発明しており、発明の2年後に日本にも電話機が輸入されていますが、ここでは音声多重通信というかなり後に実用になる技術を予言していました。
 また「電線を使用せず、数里の距離を自在に通信できる」と無線通信の出現も予言しています。
 この年にドイツのヘルツが電波の送受信の事件をしていますが、マルコーニが無線通信を発明したのは7年後ですから、これも素晴らしい予言です。
 さらに「音声伝送の利便が進歩し、大阪や長崎どころか上海や香港のような遠方で演奏される音楽を東京で鑑賞することも間近である」と海外放送の可能性も予測しています。
 最初のラジオ放送はアメリカで1900年、日本で1925年ですから、はるかに前から予測していたことになります。
 「電気や磁気の作用で光を遠方に輸送し、相手を相見ることも可能になる」とテレビ電話も予言していますが、アメリカでテレビジョンが発明されたのが37年後の1925年、日本が翌年ですから、これもはるかに先を見通していたことがわかります。

 林三郎は教育と行政の両方を担う激務であったため、明治25(1892)年に36歳でなくなりました。この通知を受けた恩師のトムソンは、本当に嘆いたと言われています。
 若くしてなくなったため、天才・志田林三郎は意外にも知られていませんが、明治維新150年を期に、近代日本の発展の基礎を作った1人を思い出したいと思います。





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