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論文

 今年になって何度か発生している北陸地方の豪雪による地域の方々の苦労は、東京など太平洋側に生活する我々がテレビジョンのニュース映像を見る程度ではなかなか実感できないと思います。
 ところが江戸時代に雪国の現実を知ってもらいたいと、「北越雪譜」という本を出版した鈴木牧之(ぼくし)という人物がおり、今日はその本と著者を紹介させていただきます。
 先週末の北陸地方が豪雪の日に、新潟の山奥の豪雪地帯に行ってきました。
 なぜ酔狂なことをと思われるかもしれませんが、たまたま新潟市で仕事があり、その帰りに三条市の山奥のある施設を訪ねようと思ったからです。
 当日は信越本線がほとんど運休状態のため、上越新幹線で燕三条駅まで行き、友人に出迎えてもらう段取りをしていたのですが、道路の除雪が遅れており、自動車が動けないので迎えに行けないという連絡があり、駅の付近のホテルに泊まることになりました。
 しかし、駅前のタクシー乗場にタクシーは来そうにないので、駅から500mほどのホテルに歩いて行きました。
 夜遅くなので、誰も通らない、両側が背丈ほどある雪の間の道をトボトボ歩いて到着しましたが、雪国の生活が大変だということを実感しました。

 その目指した、ある施設とは「月尾文庫」ですが、三条市の中心から20kmほどの山奥にある下田(しただ)という人口9000人ほどの地域にあります。
 これは立派なことを行なっているわけではなく、その地域にある小学校が廃校になり、友人が管理をしているので、不要になった本や雑誌を送って図書室で自由に閲覧してもらっているだけです。
 送った本に比べて建物ははるかに立派で、15年前に建てられたばかりの木造の校舎で、3年前から友人が地域おこし協力隊員の活動拠点にしている場所です。
 ところが、当日は三条市にある20の小学校全てが休校になるほど除雪が進んでおらず、普通であれば駅前から自動車で40分で到着できるのですが、当日は2時間もかかりました。

 社会基盤が整備され、除雪の体制もできている現代でさえ、雪国ではこのような事態が発生していますが、東京のような都会にいると実感できません。
 ましてや江戸時代であれば、豪雪地帯の生活の苦労はまったく都会には伝わらなかったと思います。
 そこで、ぜひ雪国の生活を江戸の人々に知ってほしいとう執念で出版された本が「北越雪譜」で、その著者が鈴木牧之なのです。
 群馬県高崎市と新潟県長岡市を結ぶ「三国(みくに)街道」という道路があり、途中に33の宿場がありました。
 高崎から21番目が塩沢(しおざわ)という宿場で、現在では南魚沼市塩沢町(しおざわまち)になっていますが、江戸時代は「塩沢紬(つむぎ)」という絹織物やユネスコの無形文化遺産に登録されている「越後上布(じょうふ)」という麻織物の産地として名高い場所です。
 この塩沢宿の塩沢紬の問屋と質屋を兼ねる鈴木屋に明和5(1770)年に生まれたのが鈴木牧之でした。
 裕福な商家であったので、子供の頃から地元の寺の僧侶に読み書きなどを習い、日本画も旅の途中に立ち寄った絵師に習っていました。
 19歳の時、商売のために初めて江戸に行きますが、江戸の空の青さに驚いたそうです。
 一年の半分以上を雪の中で苦労して生活している自分の故郷との違いを残念に思い、「雪国での自分たちの生活を江戸の人々に知ってもらいたい」という気持ちで、越後の風物を書物にすることを考えるようになります。

 そこで家業のかたわら10年をかけて文章も挿絵も自分で書き、江戸へ出た時に知り合った浮世絵師かつ戯作者の山東京伝に出版の仲介を依頼したところ、引き受けてくれることになります。
 そこで喜んで原稿を送ったところ、版元(出版社)から出版のためには100両が必要だと言われます。
 現在の金額では1000万円以上になります。
 これはある意味当然で、無名の地方の商人が著者で、内容も雪国の生活や産業などの紹介という地味なもので売れる見込みが立たなかったのです。
 裕福な商家といえども、その金額は工面できなかったので、今度は京伝の弟子で「南総里見八犬伝」の作者滝沢馬琴に依頼しますが、馬琴は師匠の京伝と仲違いをしており、引き受けてくれません。
 そこで「絵本太閤記」の作者岡田玉山(ぎょくさん)に依頼したところ引き受けてくれたのですが、翌年、玉山が亡くなって立ち消えとなります。

 すでに構想から30年近くが過ぎ、48歳になっていましたが、諦めずにいたところ、改めて滝沢馬琴から引き受けると連絡があり、滝沢馬琴著、鈴木牧之校訂、題名「北越雪譜」として出版が決まりますが、なかなか進みませんでした。
 そのような時に山東京伝の弟の京山から仲介すると連絡があり、天保8(1837)年、牧之67歳の時、ようやく初編3冊が発刊されました。
 19歳に思い立ってからほぼ50年の偉業ですが、当時の江戸と地方の格差を象徴するような経緯でもあります。
 初編3巻と二編4巻で構成され、牧之は続刊を検討していたようですが、第二編の出版の翌年の天保13(1842)年に72歳で亡くなり、合計7巻で終わっています。
 しかし分量は現在の活字の書籍にしても300ページを超える大作で、鈴木牧之の雪国の生活を知ってほしいという50年近い情熱が凝縮されたような、非常に多くの情報が詰まった雪国百科全書と名付けられるような書物で、意外にも江戸ではベストセラーになりました。
 牧之は20歳の頃に中耳炎になったため若くして難聴になり、晩年には法螺貝を耳に当てて人の言葉を聞いていましたし、66歳の時には脳溢血で身体が不自由になり、家から出られない状態でしたが、それでも商売をしながら、当時としては画期的な雪国百科辞書を執筆、発行した背景は、現在に続く、江戸と地方の格差への不満ではないかと思います。





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