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論文

 赤色の煉瓦の建物で有名な北海道庁旧本庁舎が札幌都心にある。この一階左手に北海道立文書館があり、その入口の壁面に天井まで到達するような巨大な地図が掲示されている。江戸末期に道内から樺太、北方四島までを六度にわたり踏破した探検家松浦武四郎が徳川幕府の依頼で作成した一八五九年製の「東西蝦夷山川地理取調図」の複製である。

 緯度経度それぞれ一度の範囲を一枚の和紙に印刷した二六枚揃いの地図を一体にした縮尺二五万分の一程の大図であるが、驚嘆することがある。ほとんど独力で探査し、その内容を一年程度の時間で地図に完成させた松浦武四郎翁の能力もさることながら、その詳細な地図のどこを見渡してみても、一本の直線も発見できないことである。

 現在の地図には、鉄道、道路、空港、都市のみならず、河川にも海岸にも多数の直線が存在しているが、この地図の河川はすべて蛇行し、海岸はすべて曲線である。明治二(一八六九)年に北海道開拓使が創設されて以後、河川は舟運や干拓のため運河にされ、海岸は護岸で直線にされる以前の蝦夷の自然が克明に表現されたものである。

 この地図以外に、松浦武四郎翁は膨大な記録を刊行しているが、安政五(一八五八)年に釧路地方を探査した記録『久摺日誌』には、オタノシケから阿寒川沿いに内陸を踏査していく様子が克明に記述されている。道路のない湿地を徒歩で難渋していく苦労とともに、未知の空間を探査していく期待が彷彿としてくる文書である。

 現在、国道二四〇号を自家用車で阿寒の方向に進行していくと、ほんの一五○年程前には、背丈以上の茅野のなかを踏破していかなければならなかったという地理を想像するのは容易ではないし、その日誌に挿入されている自筆の墨絵に表現された阿寒湖越えの雄岳と雌岳の雄大な光景も、一体が開発されている現在では観光することはできない。

 しかし、そのような開拓事業は現在の視点で非難されることではなく、明治以来、日本の人口が三・五倍に、道内の人口が約三五倍に増大する過程で、資源や食糧を供給してきた北方の大地として必然の結果であった。ところが現在、日本の人口は頂点に到達し、公共事業は縮小していく時代になり、従来の開拓や開発の方向は転換の時期にある。

 そのような時点で、この地図や記録には重要な意義がある。この北海道人と名乗った先達の名前に由来する大地は、明治以来一三○年程度の近代社会の営為では破壊されることのない雄大な自然の基盤を現在にまで維持している。もう一度、松浦武四郎翁の記録した自然に立脚して、日本で唯一といっていいフロンティアの将来を構想するべきである。

 最後に宣伝のようになって恐縮であるが、探検家松浦武四郎の視点を案内に、この大地の将来、そして日本の将来を構想するテレビジョン番組「月尾嘉男・未来世紀日本」を、四月から毎月一回、最終土曜の二五時三○分、北海道テレビ放送局で放送させていただくことになったので、御覧いただければ光栄である。



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