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論文

 消滅した広大な勇払原野の悲哀

 羽田国際空港を出発してから約九○分が経過し、千歳国際空港を目指して機体が下降しはじめると、眼下に広大な茶色の空地が俯瞰できるようになる。南側が海面、東側と北側が緑色の湿地や森林という自然環境であるために、その茶色の人工環境がことさら際立つ風景である。説明するまでもないが、巨大な公共事業の失敗事例の代表のように引用される苫小牧東部大規模工業基地である。

 戦争によって壊滅した日本の工業基盤を再建するため、政府は一九六○年代から次々と全国総合開発計画を策定しはじめる。池田内閣の高度経済成長政策を背景にした最初の全国総合開発計画が一九六二年秋に発表され、六九年春には佐藤内閣が第二期目の全国総合開発計画を閣議決定した。これは高速鉄道、高速道路などを整備して、全国各地に巨大な規模の開発計画を実現していこうというものであった。

 そのような背景のなかで北海道開発局が七一年夏に策定したのが「苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画」である。苫小牧市の東側に展開する一万ヘクタール以上の広大な原野を干拓し、工業社会の整備を一気に推進しようという構想であった。中心都市札幌と約一時間で往来できる日高自動車道、遠浅の海岸を浚渫し、八万トンの船舶が接岸できる桟橋を建造した苫小牧港、そして国際空港が隣接するという理想の工業基地であった。

 この構想の背後には道内経済が工業社会に出遅れたという事情がある。道内の一次産業の就業者数は全国の五・五%であるが、生産金額は約一二・五%にもなる。しかし、二次産業になると数字は逆転し、就業人口比率は三・三%であるのに生産金額は三・一%でしかない。明治以来、日本の資源基地、農業基地であったとしても、道民人口の比率は四・五%であるから、二次産業、すなわち工業社会に出遅れていたということは確実である。

 この出遅れを一気に挽回しようと構想された巨大計画であったが、結果は惨憺たる失敗であった。二○○四年三月末現在、ここに用地を確保した企業は八五、その購入面積は合計しても約九七五ヘクタールで工業用地面積五五○○ヘクタールの二割にも到達していない。そして現在、借入金残高額は一八○○億円、その元利返済が毎年九○億円にもなっているが、収入は約四億円しかない。経済事業としても完全に破綻である。

 「月尾嘉男・未来世紀日本」の番組撮影のため、共演の真砂徳子さんとともに、この工業基地を訪問した。わずかに建設されている建物以外、見渡すかぎりの荒野である。完全には舗装されていない道路をときどき疾走していくトラックの背後の砂塵が、この地域の現状を象徴していた。開発に関係してこられた方々には失礼な表現であるが、現代の廃墟という言葉が似合うような光景である。

 この一帯の原初の風景が文章と絵画に記録されている。弘化二(一八四五)年、探検家松浦武四郎は最初の蝦夷探検で、函館から太平洋岸を経由して知床半島の先頭まで踏破しているが、その途中で、この地域を通過し、その様子を『初航蝦夷日誌』に詳細に記録している。その書中の「ユウブツ会所之図」には、原野に埋没しているような会所のわずかな建物以外、見渡すかぎりの葦野が描写されている。

 文章についても関連する一節を紹介してみたい。「勇払は白老場所から九里のところにあり、南向きで蝦夷ではもっとも温暖な土地である。後方には多数の沼地があり、前面は砂浜である。左側の樽前、東側の沙流との中間で湾曲している。山地は遠方なので木材は不足しているが、背後は沼地であるために小舟による通行には便利である(筆者意訳)」というように、当時は勇払原野といわれる葦原であった。

 しかも、一帯はもともと海底であった低湿地帯であり、その上部に周辺の火山の降灰が堆積した場所のために農業などには不向きで、長年、原野のまま放置されてきた。ようやく一九七○年代になって、現代社会の要請に対応するために太古からの湿原七○○○ヘクタール以上が干拓されたのであるが、残念ながら、その要請に応答することはできず、荒野のまま放置されることになった。その原因は多数ある。

 一三の省庁が計画に複雑に関与し、責任の所在が明確ではない開発体制は原因の第一である。財政投融資金という検査の曖昧な資金により計画が実施されてきたことも重要な原因である。しかし、最大の原因は産業構造が巨大な転換をしていることを見抜くことができず、ほとんど計画の変更もないままに事業を推進してきた見識にある。来週から、その原因を説明し、解決の方向を検討していきたい。



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