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論文

体育の遍歴

 子供時代から性格はマゾヒスティックであった。小中学校時代には遠泳や長距離走に能力を発揮し、学校の駅伝代表選手にも選抜されたが、進学優先学校の悲哀で、中学時代には小学選手にも追抜かれる実力であった。名古屋大学助教授の時期には、大学の陸上グランドで迷惑がる学生を相手に毎夕のように競走をし、過酷であるという理由で戦後は中止になっていた富士登山駅伝が復活したのを機会に、友人五人で即席チームを編成して参加した。これは五人で山麓から富士山頂までリレーして往復する競技である。体育大学の学生や自衛隊員など屈強のチームとともに、第一走者として颯爽と出発したが、途中で足首を捻挫するという惨憺たる事態になった。しかし、一人でも棄権すると失格となる規則のため、途中で待機している友人に迷惑をかけないように往復とも完走した結果、何年も足首の不調で苦労した。これで長距離走からは引退することになった。
 スキーも子供時代から岐阜や長野のゲレンデで人並みに練習し、中学時代までは相当の腕前であったが、それ以後は上達せず、大学時代は女子学生相手の軟派スキーヤーに転落してしまった。その自責の気持とともに雑踏のようなゲレンデに愛想をつかし、四○歳台になってからクロスカントリースキーに転向し、人影のない林間や山中を黙々と走行することになった。このマゾヒスティックな競技は性格に合致し、二月に湧別原野で開催される八五キロメートルの距離競技を毎年完走しているし、現在では北海道丸瀬布で通称「月尾レース」といわれる競技大会を開催している。これは日本でもっとも過酷なレースとされているが、一五キロメートルほどの急峻な坂道をひたすら登坂し、頂上から一五キロメートルをひたすら滑降してくることでも過酷であるが、三月最後の週末という開催時期はクマが冬眠から目覚めて出没する時期であるという意味でも過酷なのである。
 水上スポーツも何種かは経験した。金持の社長とともに水上スキーをしたこともあったが、それが見合いの手段だと判明して逃亡し、しばらくはヨットに熱中した。大型クルーザーは性格に適合しないので、もっぱら二人で操船するディンギーを愛用していた。ヨットは流体力学の応用であるため、理工学系の人間には有利であり、多少は上達したが、東京から地方へ転勤になったことから自然消滅してしまった。そしてカヤックである。以前から興味があったが、機会がないままであった。ところが、高知に橋本知事が誕生し、その御祝に訪問したときに、四万十川でリバーカヤックをしている人々と出会い、この日本最後の清流と誤解されている河川でリバーカヤックを開始した。その延長で知床半島をシーカヤックで周回する経験をすることになり、人影のまったくない海岸を自由に航行できるスポーツに完全に魅入られてしまったのが、五○歳台に到達したときである。


一枚の写真

 それ以後、日本列島最北の知床半島から最南の南西諸島まで、全国各地でシーカヤックを体験したが、数年してから精神の転機に直面することになった。一枚の写真との出会いである。それはシーカヤックのガイドを生業としている友人がケープホーンで撮影したモノクロームのピンボケ写真で、見上げるような大波に木葉のように翻弄されている一艘のシーカヤックの写真であった。それはロバート・J・フラハティ監督の記録映画の名作『マン・オブ・アラン』(一九三四)の場面を髣髴とさせるもので、自然の威力と人間の微力の関係を、これほど明確に表現した写真もないという傑作であった。ここで生来のマゾヒスティックな性格が目覚め、遊戯のようなシーカヤックで暇潰しをしているのではなく、この世界でもっとも難関とされる海洋に挑戦しようという気持が精神の奥底に巣食うようになった。ケープホーンへの挑戦である。
 ケープホーンは南米大陸の南端に位置する孤島であり、背骨であるアンデス山脈が南下するとともに高度を低下させ、最後に海中に水没する地点である。東側は大西洋、西側は太平洋、南側は南氷洋という大洋に包囲され、それらの大洋からのうねりが海中の山脈に衝突して巨大な波浪になるとともに、南緯約五六度で偏西風帯の最中にあるため、いつも強風という地帯である。有史以来、多数の船舶が遭難し、世界一周を目指す船乗りにとって最大の難所とされてきた魔境でもある。大型クルーザーでさえ何艘も行方不明になっている魔境を、人力だけで航行するシーカヤックで漕破するということは無謀な冒険であるし、シーカヤックの経験が十年程度という人間が挑戦することは狂気の沙汰かもしれないが、これまで成功した事例がないわけではなく、世界で数組が成功している。その一組のリーダーであったのが、前述した写真を撮影した友人である。
 ケープホーン遠征の時期については、還暦というのが区切りがいいだろうと漠然と決意をし、それを目指して様々な準備を開始したが、最大の課題は遠征に必要な何十日間かの休暇を確保することであった。大学といえども、それほどの日数の休暇を取得することは容易ではない。そうこうしていたときに平成一四年一月初め、諸般の事情としか説明のできない理由で、総務省総務審議官という役職の政府の役人になってしまった。時間が自由にならないということでは、役人は教官とは比較にならないほど窮屈である。それでもともかく窮屈な仕事を我慢していたが、役所生活では体力も気力も衰退していくことが明確になり、ついに一年で役所を辞職し、ついでにまだ任期が一年以上あった大学も辞職して完全に自由な身分になることができた。国家から解放されるということは経験した人間にしか理解できない爽快な気分である。


周回の成功

 そこでまず現地視察ということで平成一五年五月連休中にチリに出発したが、森喜朗前総理大臣の厚意で大変な視察になってしまった。森喜朗前総理大臣とは以前から懇意であったので、役人を辞職したときに挨拶に出向き、ケープホーン遠征を構想していることを説明したところ、チリのリカルド・ラゴス現大統領とは懇意だということで丁重な紹介の書状を送付していただいた。その効果は絶大で、チリ南部のプンタ・アレナス空港に到着したところ、海軍の兵士が出迎え、そこから偵察用軍用機でカヤックの出発地点となるプエルト・ウィリアムスまで輸送してくれた。それに感激していたところ、さらなる感激があり、そこからは本番で航行する予定のケープホーンまでの航路を、小型の軍艦で一五時間かけて案内してくれるという厚遇となった。このチリ海軍の厚意により、実際の遠征に必要な準備の構想が明確になり、成功の確率が一気に向上することになった。
 そしてついに平成一六年一月一○日に東京を出発し、一月二五日早朝七時三○分、人間が定住している最南の村落プエルト・ウィリアムスを友人三人とともにシーカヤックで出航した。シーカヤックは人力のみで推進する全長約五メートルの細長い乗物であり、風速一○メートル以上になれば航行は困難になるどころか危険でさえある。ところが、この一帯は有名な強風地帯であり、風速一○メートル以上になることは日常茶飯である。そのために島伝いで航行し、強風になれば孤島に上陸してキャンプ生活という方法をとる。初日から数日は強風の合間に前進することが可能であったが、最初の難関が二五キロメートル程度の海峡を横断する直前に発生した。前方に遠望できる島影を目指して出発したが、天候が急変してきたために反転して付近の海岸に上陸した。ところが、そのときから丸四日間、秒速二○メートル以上の強風が連続し、海岸のテント内部に釘付けとなった。
 日本のように詳細な天気予報があればまだしも、まったく情報のない無人の孤島で、いつ回復するともしれない天候を期待して何日も待機することは、人間の無力さを痛感する経験であった。今回の遠征を回顧してみても最大の試練であった。しかし、それから数日は一転して天候は回復し、場合によっては無風という状態のなかをペンギンやオタリアを観察しながらノンビリと航海し、ケープホーンを眼前にする孤島まで到着した。そしてカヤックで出発してから二○日目になる二月一三日朝、ケープホーンを周回する最後の航海に出発した。風速は約五メートルで幸運というほどの条件であったが、流石に魔境ならではの波浪が次第に登場し、二時間半の悪戦苦闘の結果、午前一○時一○分、数百メートルの断崖絶壁であるケープホーンの南側を通過することができた。自身では冷静であったように記憶しているが、撮影されたビデオテープでは絶叫していた。


故郷の探求

 素人が無謀な冒険に挑戦する理由は何度も質問されたが、現在でも明確な回答は発見できていない。大学の教養学部時代、ギリシャ文学の講義を聴講したことがある。わずか数人の生徒が教授の部屋で指導される和気藹々とした授業であった。その影響でホメロスの『オデッセイ』を十分に理解できないまま読破した。現在でも最高傑作といえる映画の一本は映画監督スタンリー・キューブリックとSF作家アーサー・クラークの共作『ア・スペース・オデッセイ二○○一』である。いずれも人間を超越した存在に翻弄されながら自身の出生の故郷を探求するための冒険物語である。この二大作品を引用して説明するのは尊大にすぎるが、今回の冒険は人生を一巡した還暦の時期に、自身の精神の故郷を回顧するということではなかったかと想像している。今回の冒険を記録した自作の記録映像の題名を『アン・オーシャン・オデッセイ二○○四』と名付けた所以である。
 地球規模の環境問題が科学の課題としてだけではなく、政治や経済の分野の課題としても議論されるようになってきた。地球の四六億年の歴史を一年に圧縮してみると、人類が登場したのは一二月三一日午後四時という最近のことであり、我々の生活を支配している工業文明が発明されたのは現在から数秒以前のことである。この地球にとっては新参にすぎない生物が、その母体である地球の環境を左右するような威力になりつつあるのが環境問題である。無人の孤島で岩間から滲出してくるわずかな清水で炊事をし、流木の焚火で調理をし、海岸で排便をするという生活をしていると、はるか日本の巨大都市での生活が次第に異常なことと実感するようになる。その異常が六○億人の人間の生存を保証しているのであるが、日常の生活で異常に気付くことはほとんどない。人々が自身の出生の故郷を認知することがないかぎり、環境問題は解決できないことを無人の孤島で痛感した。
 過去数十年間、工学という分野に従事してきた。その工学の目標は生活水準の向上である。家庭電化製品は炊事や洗濯の時間を短縮し、交通手段は移動時間を短縮し、人間は束縛されない時間を拡大してきた。しかし、その生活水準の向上は要約すれば、地球環境への負荷の増大によって成立してきた。その循環を維持できなくなったのが現在である。これから人類は生活水準を維持しながら環境問題の解決を目指すというシジフォスの神話に匹敵する努力を要求されるが、物理問題としての解決は困難である。可能な道筋は精神問題としての解決である。自家用車で資源を浪費する移動よりも徒歩で周囲の景色を鑑賞できる移動が幸福であり、大量に廃棄されるコンビニエンスストアの弁当よりは手作りの弁当が幸福であると実感できるとき、この問題は氷解していくはずである。ケープホーン周回で区切りのついた今後の人生は、このような課題を追求していきたい。




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