TOPページへ論文ページへ
論文

工業社会の覇者

 一九九○年三月に日本電信電話株式会社が「二一世紀のサービスビジョン」という長期計画を発表した。これは別名「VI&P計画」ともいわれ、次代の通信手段として、画像(ヴィジュアル)通信、知的(インテリジェント)通信、個別(パーソナル)通信を推進し、その基盤として二○一五年までに日本のすべての家庭に光通信網を敷設するということを目指したものである。
 日本では話題にならなかったが、驚愕したのはアメリカである。それは一五年前の悪夢の再現を予感させたからである。七○年代中頃に日本の銑鉄生産がアメリカを凌駕してソビエト連邦を除外した資本主義諸国のなかで首位に躍進した。これは一八九○年代にアメリカがイギリスを逆転して首位になって以来の順位交代であり、時代はまだ「鉄鋼は国家なり」という言葉が通用した工業社会の只中であったから、世界の一大事件であった。
 その前後には、日本の機械類輸出額が世界の首位になるとか、世界最速のスーパーコンピュータを開発するなど、技術においても産業においても日本の目覚しい躍進が連続していた。二○世紀初頭には、アメリカが一四○○万トン、イギリスが九一○万トンの銑鉄を生産していた時代に、わずか一○○○トンしか生産していなかった日本が、たかだか八○年弱で工業国家として頂点に到達するという偉業を実現した時期でもあった。
 工業社会で日本に苦杯をなめさせられたうえに、VI&P計画が実現すれば、これからの情報社会で再度、日本に先行されるとアメリカが危惧したのも当然である。そこでクリントン政権はVI&P計画の焼直しといっても過言ではない「国家情報通信基盤計画(NII)」を急遽九三年秋に発表し、挽回を開始した。挽回のための戦略は後述するが、それから一○年強が経過した現在の日本の情報社会の様子を紹介してみたい。
 固定電話は千人あたりの普及が六○四台で一三位、携帯電話は千人あたり五七七台で二九位、コンピュータは千人あたり四七七台で一七位、インターネットは千人あたり五○九台で一四位というのが日本の実情である。先進国家というよりは後進国家である。それは二○○一年一月に日本政府が発表した「e−Japan戦略」の冒頭に書かれている「五年以内に世界最先端のIT国家となることを目指す」という言葉に象徴されている。
 九○年時点ではアメリカより三年は先行していたにもかかわらず、一○年後には五年も逆転されていたということである。もちろんアメリカも独走というわけではなく、コンピュータの普及は千人あたり七三九台で断然首位であるものの、固定電話は七○一台で七位、インターネットは五五六台で七位、携帯電話は四九七台で三○位であるが、情報産業の規模や情報技術の実力では世界一位の国家の地位を維持している。
 このような逆転が何故発生したかということであるが、それはアメリカが日本に追跡され、一部では日本に追越された時期に、綿密な戦略を検討して着実に実施してきたからだと推察する。その戦略の基本は、二○世紀の工業社会の分野で競争するのではなく、二一世紀を見通す情報社会の分野での発展を目指すことであるが、そのために考案された三種の戦略について以下に紹介していきたい。


知的財産の強化

 第一は情報社会の基礎となる知的財産の権利を確定する戦略である。八○年一二月に通称「バイドール条項」という法律が成立している。これは提案したバーチ・バイ上院議員とロバート・ドール上院議員の名前に由来するが、正式には「一九八○年特許商標法修正条項」という法律であり、主要な内容は、連邦政府の資金助成による研究であっても、その成果である特許を研究した大学や研究機関や中小企業に帰属させるというものである。
 その背景には、連邦政府が多額の研究投資をしても、その成果である特許が政府に帰属してしまう従来の制度では、企業などが利用しにくいので睡眠したままになっているという事実があり、国有特許は「だれもが使用できるが、だれもが使用しない」という評判であった。実際、七六年末の調査では二万八○○○以上の特許を連邦政府が保有していたが、企業が利用していたものは一割の二八二件しかないというのが現実であった。
 その事実を憂慮したカーター大統領が七九年一○月に「産業技術革新政策についての大統領教書」を議会に送付し、特許制度の強化、ベンチャー企業の育成、独占禁止法の適用緩和とともに、大学から企業への技術移転の促進を提言し、それを反映して実現したのが上記の法律である。これは目覚しい成果をあげ、大学が取得した特許は七○年代初期の年間二五○件程度から、九○年代後半には約三二○○件に飛躍している。
 このような特許を有効に利用できるようにするためには、特許係争を短期で決着させることも重要である。特許の有効期間は二○年間でしかないから、係争で何年も浪費してしまうと損害は甚大になる。そこで情報社会の基礎となる知的財産についての係争を迅速に裁判するための専門の組織である連邦巡回区控訴裁判所が首都ワシントンに設立された。カーター大統領の教書の発表から三年後八二年のことである。
 知的財産の権利を国家として確保する戦略は特許の対象範囲を拡大するという方法でも推進された。八○年、ジェネラル・エレクトリックの生物学者アーナンダ・チャクラバーティが発見した原油を分解するバクテリアに特許が認定され、世界最初の生物特許が成立した。生物は特許の対象にならないというのが常識であったが、人間が改良したという根拠で常識を突破した。これが世間でチャクラバーティ事件といわれるものである。
 さらに翌年になると、コンピュータ・ソフトウェアに特許を認定したディーア事件が発生した。アイデアは対象にしないということも特許の常識であったが、ソフトウェアは磁気テープや磁気ディスクなどモノに記録されなければ実用にならないという解釈で、さらに特許の範囲が拡大した。八八年にはAT&Tのナレンドラ・カーマーカが申請した線形計画の解法に同様の理由で特許が認定され、数学も特許の対象になるまでに拡大された。
 そして九○年代になると一気にビジネスモデル特許が花開く時代に突入する。九八年にステートストリート銀行事件が嚆矢となった。顧客の預金を有利に運用する方法が特許になったのであるが、アメリカでさえ二○世紀初期には認定されなかったアイデアそのものが特許の対象とされるようになったのである。それ以後、商売のアイデアにすぎないビジネスモデルが巨大な資源に変貌しはじめ、情報産業の発展を加速したのである。


軍民転換の促進

 第二は軍事技術を民間企業に開放する軍民転換といわれる戦略である。レーガン政権では荒唐無稽な戦略防衛計画(SDI)を開発するために膨大な国防予算が支出され、軍需産業が成長するとともに財政赤字も増大した。しかし、ブッシュ政権、クリントン政権とも国防予算の削減を実施し、対国民総生産比率で八八年の七・七%から九八年には三・二%にまでに低下し、金額では約二○○○億ドルが削減された。
 そうなると、政府予算依存という日本の土木事業と類似の性質をもつアメリカの軍需産業は苦境になるが、その苦境を緩和する目的で実施されたのが軍民転換である。九一年一二月にソビエト連邦が崩壊したこともあり、機密が解除された軍事技術が増加し、それらを民間企業が利用して新規の産業を発展させるとともに、高度な技術をよって産業の国際競争でも有利になるというのが目指すところである。
 代表は衛星写真である。日本でも情報収集衛星という名前で二○○三年から解像精度が一メートル程度の写真を撮影できる衛星が周回しているが、写真は一般には開放されていない。しかし、アメリカではすでに九八年からイコノスという軍事技術を転用した商用写真撮影衛星が地球を周回して、同様の能力で撮影した衛星写真を一般に販売している。軍事技術の能力と民間技術の能力とは、その程度の格差があるということである。
 それ以外にも、八○年代から流行しているバーチャル・リアリティ、世界の情報通信の構造を根底から変革したインターネット、情報社会の重要技術である暗号、世界のありとあらゆる場所で通信ができる衛星携帯電話イリジウムなど、軍事技術の転用によってアメリカが断然優位にある産業分野は多数ある。残念ながら、この分野は日本では真似できないが、アメリカの底力を利用した戦略である。


魅力増大の推進

 第三が最大に巧妙なものであるが、情報社会の威力の本質を見抜いた戦略である。九六年、クリントン政権の国防次官補であったジョセフ・ナイと統合参謀本部副議長であったウィリアム・オーエンスが「アメリカの先端情報社会」という論文を『フォーリン・アフェアーズ』に発表した。この論文のなかで二人は、実現しつつある情報社会で威力となるものを明確に定義した。それは魅力(アトラクティブネス)である。
 戦後、アメリカとソビエトという二大勢力が拮抗して世界を安定させていた時代に重要な威力は武力であったが、その体制が崩壊しはじめ日本が短期にせよ台頭してきた時期には財力が威力となる時期もあった。しかし、これから登場する情報社会では、ヒト・モノ・カネ・チエを自国に有利になるように集中させることのできるソフトパワーとでも命名できる魅力こそが最大の威力となるという趣旨の論文である。
 日本の留学生数もようやく一○万人に到達したが、アメリカには年間五○万人の優秀な学生が世界から留学してくる。それらはアメリカの研究や教育の魅力に誘惑されてくるのであるが、その多数はアメリカ企業に就職して産業の発展に貢献している。アメリカは世界最大の対外資産の債務国家であるが、それはアメリカの市場の魅力が世界の資金を吸引しているからである。ちなみに日本は世界最大の対外資産の債権国家である。
 インターネットが普及しはじめた九○年代の前半に、連邦政府は「アメリカの記憶」という膨大なウェブサイトを創設している。過去二○○年以上、アメリカという国家が蓄積してきた数億ともいわれる文書、写真、絵画、音声などからアメリカを理解してもらうために適切な数百万点の情報をデジタル情報に転換し、自由にアクセスして閲覧できるようにしている。それは魅力を発信するという構想が背景にある作業である。


戦略欠如の日本

 このようなアメリカの戦略と対比してみると、日本が次代への戦略を構想することに失敗し、現在のような閉塞状況にあるのも必然の結果であることが明確である。その原因のひとつは速度の不足である。工業社会はエコノミー・オブ・スケール(規模の経済)の時代といわれるのに対比して、情報社会はエコノミー・オブ・スピード(速度の経済)の時代といわれるが、その速度が欠如していたのである。
 教書の発表から一年で成立したバイドール条項に対応する日本の法律は「大学等における技術に関する研究成果の民間事業者への移転の促進に関する法律」であるが、これはアメリカより一八年遅れの九八年四月に成立している。普通の年数でも二昔の出遅れであるが、その七倍の速度で進行するといわれるドッグイヤーの情報社会に換算してみると、一三○年に相当し、明治初期の産業革命に出遅れた状況と同一である。
 同様に教書から三年で実現した連邦巡回区控訴裁判所に相当する組織は日本に現存しないが、本年二月、ようやく知的財産高等裁判所設置法が国会に提出され、順調であれば○五年に創設される予定である。これもアメリカと比較すれば二三年遅れ、ドッグイヤー換算では約一六○年遅れの対応ということになる。これは経済政策の失敗のように一般社会の関心がないために目立っていないが、国家の重要な失政といっても過言ではない。
 このような失政は一度だけではない。二○○○年六月にアメリカのクリントン大統領が衛星画像で参加したイギリスのブレア首相とともにヒトゲノム解析作業の完了を宣言したとき、日本は全体の六%の解読をして世界三位の貢献をしていたにもかかわらず、故意か偶然かは不明であるが、この国際共同作業に貢献した国家として名前は発表されず、日本以下の解読しかしていなかったフランス、ドイツ、中国の名前が列挙された。
 しかし、このヒトゲノム解析に最大の貢献をしたのは、東京大学の和田昭允教授が八五年に発明したシーケンサーといわれる自動解析装置であり、本来、日本は多大な貢献ができたはずであるが、途中で開発予算が打切られ、結局、自動解析装置の開発も、それを利用した解析も、出発時点では出遅れていたアメリカが最後には先頭になるという結果になった。紙数の都合で省略するが、ナノテクノロジーについても同様の現象が発生している。
 しかし、より重要な課題は、現在の日本は眼前の現象には敏感に反応するが、根底にある精神を見抜き長期の構想を立案する能力が欠如していることである。ITという技術は日常生活を便利にするとか、作業効率を向上させるという効果があり、それを普及させることは必要なことではあるが、それだけでは十分ではない。その威力の本質は何処にあり、その威力を利用してどのような社会を実現させるかという構想が必要である。
 数例を列挙すれば、明治以来維持されてきた中央集権体制は急速に地方分権体制に移行していくが、それを加速しているのがITを駆使した情報公開である。情報公開は知事の交際費用を調査するという興味本位のものではなく、一○○年以上継続してきた国家体制を変革する手段だと理解すれば、現在の中央政府の公開への消極さは問題とすべきであるが、その理解がないために政府も国民も徹底して情報公開を推進しないのが現状である。
 アメリカ経済が情報社会で躍進したのは、シスコ・システムズ、デル・コンピュータ、アマゾン・コム、アメリカ・オンラインなど新興のベンチャー企業の躍進に依存している。そうであれば日本もベンチャー企業の育成のための知的財産の権利の保護を徹底すべきであるが、前述したように、世界の潮流から大幅に出遅れたままである。国情の相違があるにしても、構造変化を見通した政策が立案されないところに日本社会の停滞の原因がある。
 その情報社会を推進する人材は、これまでの教育が育成してきたような周囲と同一を目指す画一の人間ではなく、独自の発想で行動する人間である。そうであれば、全国一律の教育制度は早急に変革すべきであるが、権限を維持したい官僚の思惑で教育特区でさえも容易には実施できない状態である。これらすべてに共通するのは、ITというものが人類の歴史のなかで幾度しかない巨大な変革の手段だという認識が欠如していることである。
 現在の日本は、人口増大の時代から人口減少の時代へ、生産中心の社会から生活中心の社会へ、中央集権体制から地方分権体制へ、画一の価値から多様な価値へというような一八○度といってもいい転換をしなければならない時期にある。明治維新にしろ第二次世界大戦後にしろ、転換は黒船や敗戦という外圧が手助けしてくれた。今回はITこそが転換の推力である。そのような認識により巨大な転換を目指すIT戦略が必要なのである。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.