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論文

 この六月に五七八字の人名漢字を追加する提案が政府から発表された。現在、日本では一九八一年に指定された一九四五の常用漢字以外に二八七字が人名漢字として指定されており、人名に使用できる漢字はこの二二三二文字に制限されている。今回の提案は、その人名漢字を一気に三倍にしようというものである。

 これは多様な文字を名前に使用したいという国民の要望を背景に提案されたものであるが、「苺」「雫」「芭」「柑」「遥」などは要望に適合するものの、「癌」「淫」「糞」「屍」「垢」など、名前には使用されそうにもない文字が多数あり、疑問が提示されている。しかし重要なことは、どちらかといえば従来は日常で使用する漢字を制限してきた方向から増加させるという方向に転換したことである。

 紀元前一世紀に中国で作成された『説文解字』という辞書には九三五八種類の漢字が収録されているが、一八世紀に清朝が国家事業として編纂した『康煕字典』では四万七○○○の文字が記載され、さらに中国で最近出版された『中華字典』では八万五○○○の文字が採録されている。一人の人間が記憶して日常に使用する範囲をはるかに超過した字数であり、これを解決するために古来、様々な提言がなされてきた。

 とりわけ長年の鎖国から開国して欧米文化に接触した明治時代初期には、文明開化という名目で漢字を廃止する提案がいくつもなされている。日本の郵便制度を創設して有名な前島密は将軍徳川慶喜に「漢字廃止之儀」を提言し、近代軍制の確立に貢献した学者西周はアルファベットの採用に熱心であり、初代文部大臣の森有礼は日本語廃止論により、英語を国語にする提案までしていた。

 それ以後も漢字が文化の発展を阻害しているという意見は頻発し、東京帝国大学医学部長であった石原忍は近視の原因は漢字にあるとして「東京大学眼科教室式新かな文字」を提案しているし、作家の志賀直哉は終戦直後に仏語を国語にするという論文を発表している。このような漢字が有害であるという意見と妥協しながら成立したのが、現在の常用漢字という制度であり、漢字は日本文化のなかで制約はあるものの維持されてきた。

 ところが最近になり、漢字への別種の脅威が登場してきた。コンピューターの普及である。二進数字しか通用しないコンピューターで文字を処理するためには、すべての文字を文字コードといわれる二進数字に変換する必要がある。アルファベットであれば大小の文字と様々な記号を合計しても数百種類の文字コードで十分であるが、数万にもなる漢字では多数の文字コードを用意しなければならない。

 現状では二バイト、すなわち十六ビットの桁数によって世界の文字を数字に転換する仕組が採用されている結果、漢字には様々な問題が発生してくる。一例は戸籍での異字の処理である。代表事例は渡辺の旧字「邊」であり、これには三○程度の異字があるが、字数の制限で文字コードが一貫していないためにコンピューターで処理するときに問題が発生する。同様のことは古典書籍などをデジタル情報転換するときにも発生する。

 時間とともに言語は変化していくし、それを記録する文字も変化していくことは否定できないが、文化の基礎として何千年間も使用されてきた文字を道具の都合に適合させて省略したり簡素にすることは問題である。日本、中国、韓国で共通の漢字コードを検討する研究も開始された現在、IT時代の文字の将来について明確な意思が必要である。





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