TOPページへ論文ページへ
論文

 旭川空港から西側に約二時間走行すると留萌という日本海側の港町に到着する。ここで方向転換し、日本海沿いの国道二三二号を北上すると、まず最初に江戸時代から鰊漁で繁栄した苫前を通過する。最近では数十の風車が丘陵に林立する光景で有名である。やがて左手洋上に天売と焼尻の二島を遠望しながら羽幌や遠別の町々を通過し、約三時間で手塩に到着する。夏場には快適な道路であるが、冬場には寒々とした光景の連続である。

 ここからさらに一○キロメートル北上すると、サロベツ原野の南端に到着する。東西に約八キロメートル、南北に約二十八キロメートル、面積は約二三○平方キロメートルという、釧路湿原と双璧の日本有数の湿原である。サロベツはアイヌの言葉で葦原の河川を意味するそうであるが、その言葉のとおり、見渡す範囲すべてが葦原であり、ここで迷子になれば二度と外界に到着できないという気分になるほどの茫洋とした光景である。

 昭和四○年七月に制定された利尻礼文国定公園に、昭和四十九年七月にサロベツ原野が追加されて利尻礼文サロベツ国立公園となった。サロベツ原野は約二一○平方キロメートルが指定され、そのうち八○平方キロメートルが特別地域である。日本の北端という位置のために、観光客数も微々たるものであり、工業用地の需要もなく、一部が酪農のために干拓された以外は、大半が原生の自然のままに保全されている幸運な湿原である。

 広大な湿原は、サハリンから南下する鳥類の中継基地となり、冬場になるとオオヒシクイやコハクチョウが飛来するし、夏場も多数の野鳥を観察することができる。また、植物も五○○種以上が生育しており、豊富の原生花園では、初夏にはスズラン、クロユリ、ワタスゲ、エゾカンゾウなどの花々、初秋にはエゾリンドウ、ツリガネソウ、アキノキリンソウの花々を観察することができる。

 釧路湿原と相違して、サロベツ原野でカヌーをする物好きはほとんどいないが、地元の有志の案内で、何度かカヌーで内部を航行することができた。湿原の内部にはサロベツ川が蛇行しており、一度は、その中流から天塩川に合流するまでを川下りをした。どこまでも変化しない背丈以上の葦原であるが、方向によっては、その彼方に標高一七一九メートルの利尻富士が遠望でき、どこか異郷の気分になる風景であった。

 湿原の内部にはペンケ、パンケという名前の沼地がある。この名前は道内の各地にあるが、アイヌの言葉でペンケが上流、パンケが下流を意味する。すなわち河川の上流にある湖沼がペンケトー、下流にあるものがパンケトーである。手塩のシジミは十勝のフナ、厚岸のカキとともに蝦夷の三絶といわれ、明治時代から有名な産物であるが、その有力な漁場が原野の内部にあるペンケとパンケである。

 そのためサロベツ川の中流には、漁港というにはささやかであるが、数隻の小型漁船が停泊できる桟橋が用意してあり、一度はここからパンケへ単独で出掛けた。晩秋の強風の最中であり、河川部分は両側の葦原で防護されて無風状態であるが、河川から沼地の入口に到達すると、見渡すかぎり人気のない前方は茶色の湖水が波立っており、荒涼という言葉を絵画にしたような光景であった。

 この湿原は明治以来、開拓不能の土地として人間の侵入を阻止してきたが、昭和二○年代後半から北海道開発局によって干拓が実施され、五○平方キロメートルが酪農草地に転換された。さらに昭和四○年代になると、この原野を「高生産性の酪農畜産地域」とする総合開発構想が立案された。これは新放水路を整備して水位を低下させ、約一○○平方キロメートルの草地を造成しようというものであった。

 この日本第二の規模をもつ湿原も、一時は釧路湿原と同様に、農業用地として干拓される危機に直面していたのである。そして釧路湿原が環境保護運動の努力により国立公園に指定されて開発の危機から脱出できたのと同様に、サロベツ原野も国立公園に編入されることにより開発が阻止された。しかし、既存の草地事業の影響で水位が低下しており、昭和五○年代からは保全事業が実施されている。

 特別に興味のある人間しか訪問しないサロベツ原野は、道内においてさえ、明治時代以前の自然の風景を維持している貴重な地域である。それは調教されない自然というもののもつ峻険とか荒涼という本質を人間に教示してくれる環境である。日本で次第に消滅していく本当の自然の残存する数少ない場所として、場合によっては、かつて開発した自然を復元するような努力もしながら、この原野が維持されることを期待している。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.