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論文

 釧路湿原は日本の湿原面積全体の六割を占める広大な規模であり、湿原を保護する目的で一九七一年に成立した国際条約であるラムサール条約に日本では最初の地域として一九八○年に登録されたということでも有名である。その湿原部分一六○平方キロメートルを中核とした二六○平方キロメートルは、一九八七年に二八番目の国立公園に指定されている。どの数字も、釧路湿原がいかに貴重な自然であるかを示している。

 しかし、かつて湿原は無用の長物であった。明治以前には現在の十倍以上の面積であったが、和人の入植以来、周辺から農地に転換され、ゴミ廃棄場所としてさえ利用されてきた。最大の危機は田中角栄首相が一九七三年に発表した日本列島改造計画であり、このときには湿原全体を干拓して工業用地や住宅用地にする構想まで議論されたが、保護を主張する人々の国立公園にする努力により、この災難を回避してきた。

 このような貴重な湿原を体験する普通の方法は、東西両側にある展望施設から眺望することである。東側の細岡にある小高い丘陵からは湿原内部を延々と蛇行する釧路川を眼下に一望でき、北海道以外にはない原初のままの自然に感動する。とりわけ、夕日が日高山脈の彼方に落ちていく時刻には、感動は数倍にもなる。しかし、さらに優雅な体験は、その蛇行する釧路川をカヌーで航行することである。

 釧路川の中流は人工の護岸に改修されている部分もあるが、下流は大半が湿原内部にあるため、どこからでも川に乗り入れるというわけにはいかない。推奨は塘路湖にあるカヌーステーションから支流の阿歴内川に入り、一キロメートルほど下って釧路川に合流するコースである。この合流地点からは回数を覚えきれないほど蛇行して、自然河川というものを実感できるし、幸運であれば丹頂ツルの優雅な飛翔を観察することもできる。

 しかし、釧路川によって自然を体験する、もうひとつの推奨コースがある。全長約一五○キロメートルの一級河川の源流を下ることである。クッシーで有名になった屈斜路湖の岸辺からカヌーで湖上に乗り出し、湖眺橋の下部を上体を折り畳むようにして抜けると一気に急流の源流部分に突入する。湖水の酸性の水質のため流れはあくまで透明で、周囲にまったく人工の気配のない景観は道東以外では体験できないものである。

 両側から倒れこんでいる倒木を避けながら、七キロメートル下流の美留和橋まで到達するのが第一の行程であるが、技術に自信があれば、さらに一三キロメートル下流の摩周大橋までの第二の行程に進む。途中の土壁といわれる難所を無事通過すれば、弟子屈町の市街に入るが、ここからはさらに腕前に自信がないと危険になる。有名な南弟子屈の落込みといわれる急流があり、それ以後も何箇所かの瀬が待ち構えている。

 北海道は経済の六割が公共事業に依存しているといわれる。この明治以来の公共事業は蛇行していた河川を直線にし、広大な原野を牧場にし、一面の湿地を農地に変貌させてきた。それは日本の食糧基地として位置付けられた北海道にとって必要な開発であったことは間違いない。しかし、時代は大きく転換し、自然を保全するだけではなく、かつての自然に復元させることさえ検討される時代になった。

 根室海峡に注ぐ標津川で回復の第一号が進行している。もつれた紐のように蛇行していた川は、戦後の食糧増産が至上命令の時代に、両側を牧場にするために一気に直線に変更され、蛇行部分は三日月湖として取り残されていた。その三日月湖をつなぎ合わせて、以前の蛇行した河川に戻そうという試みが検討されはじめた。木材運搬のために直線に変更された釧路湿原に流入するいくつかの川も、再度回復させる検討が進んでいる。

 それは一見、壮大な無駄のようであるが、自然が人間に無償でもたらしている保水機能とか浄化機能とか余暇機能などの価値が経済的にも見直される時代になり、開発した環境を回復する事業が世界各地で台頭してきた。それが経済の視点から意味があるのかは議論のあるところにしても、湿原の内部にしろ、森林の内部にしろ、道東の自然を水路から体験すれば、文句なく必要なことだと実感できる。

 この釧路でも様々な人々に出会った。気に入らない客は追い出してしまう料理店の巨漢の店主は、行くたびに北海道でしか味わえない料理を用意してくれた。もう一人のレストランの経営者は、私が北海道にいる限り、どこまでも同伴して面倒をみてくれた。前者は突然の病気で亡くなり、後者は不治の病で入院したままである。しかし、飽きることなく道東に惹かれるのは、自然以上に魅力のある、このような友人のおかげである。





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