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論文

 名古屋駅から出発して海沿いを進行していた紀伊本線の特急は松阪あたりから方向を転換して山間に進入していく。両側は次第に山地になり、左手に深々とした渓谷が見渡せるようになる。一級河川の宮川である。一時は全国の一級河川のなかで水質が首位となったこともある清流であり、両側の台地は全国有数の茶畑、その背後も歴史のある林業が維持されている広大な森林地帯である。その中心にある三瀬谷駅で下車し、宮川に接近する。

 宮川の名称は伊勢神宮の後背となる森林地帯を流下していくことから名付けられ、その由緒を証明するように、大宮町内には伊勢皇大神宮(内宮)別宮の滝原宮がある。古書には天照大神の遙宮とされ、二○年毎、伊勢神宮の遷宮の翌年に同様の形式で遷宮の儀式がおこなわれる別格の別宮である。この神社の氏子総代が江戸時代から林業を経営している吉田本家十一代目の吉田善三郎氏である。

 日本の林業は殿様商売の時代ははるか以前に終了し、環境保全のための慈善事業の様相になりつつあるが、吉田さんは流石に名家の十一代目当主であり、地域の交流の拠点とすべく、自分の土地の一部に壮麗な丸太小屋「噺野」を建設された。この丸太小屋で何年か以前、吉田さんと三重の北川正泰知事と鼎談したことが契機となり、地域で宮川清流塾を毎年数回開催し、そのついでにカヌーをすることになった。

 残念なことに上流には巨大な宮川ダムがあり、しかも発電に利用された川水は熊野灘側に放流されてしまうため、宮川の上流では水量が不足気味でカヌーは困難であるが、それでも年間雨量数千ミリメートルという日本有数の多雨地帯の雨水が森林で濾過されて多数の支流から流入し、中流以降は屈指の清流となっているし、一旦豪雨ともなれば濁流に変化する。この中流から下流がカヌーの舞台である。

 宮川は台地を深々と侵食しているために両岸は急峻な斜面になっており、水面までカヌーを運搬するのは面倒な仕事であるが、一旦、水面を下降しはじめれば、台地の上部にある集落や施設は視野から消滅し、遠方の緑深い山々や、自然護岸のままである岸沿いの樹林を眺望しながら、ほとんど人工の気配のない環境を下降していくことができる。現状ではカヌーをする人々は少数であるが、推奨のコースである。

 宮川に接近するには、これ以外に二種の経路がある。第一は奈良県側から県境の大台ケ原に登山し、宮川の源流部分である大杉渓谷を下降してくる経路である。大杉渓谷は富山の黒部渓谷と急峻さを競争する深山幽谷である。両側は数百メートルの屹立する岩壁であり、その中腹を削岩して人間一人がなんとか通過できる程度の山道が用意されているが、毎年、何人かが滑落で死亡するという難所である。

 しかし、山道からはるか眼下の激流は碧色という漢字でしか表現できないほどの色彩であるし、途中には様々な形状の名爆が連続している絶景である。残念ながら、オルフェの伝説、もしくはイザナキの伝説のように、振返ると転落の危険があるため、登山しながらは鑑賞できない。また日本有数の豪雨地帯のため、強運の持主以外には、青空に反映する深山を鑑賞できない。それでも健脚の方々には挑戦の価値のあるコースである。

 第二は、最近になり急速な人気の熊野古道である。熊野古道は和歌山県南部にある熊野三山に到達する参詣道路であるが、石畳の山道の連続であり、登山といってもいいほどの急峻な部分が各地にある。三重県側の出発地点が伊勢神宮であり、最初の経路は宮川の左岸を通過する。三○キロメートルほどの地点にある三瀬の渡しで宮川を横断し、三瀬坂峠を経由して滝原宮に到達する経路は往時の道筋を髣髴とさせる山道である。

 一度は日本第一の清流となったこともあり、宮川には流域の方々も関心があり、宮川清流塾も上流・中流・下流の代表が幹事となって流域全体で運営されているし、三重県庁も流域の全市町村が共同で宮川を維持していくための組織を設置して、宮川流域ルネサンス計画を推進している。それ以外にも数十の民間団体が宮川の保全のために活躍しており、これからの時代の河川と地域の関係の先駆をなす格好の事例である。

 長野の田中知事のボツダム宣言により、ダムの建設や存在の是非についての議論が活発になってきた。宮川流域においても、宮川ダムで発電に利用された川水を再度、宮川に放流して上流の水量を回復する議論が以前から進展している。これまで人口の増大、農地の拡大が条件であった時代には、ダムも必要であったが、そろそろ条件も変化してきた。長期の視点から河川と流域の関係を検討しなおす時代の象徴が宮川である。





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